1964東京五輪、あなたのお宝は? (2ページ目)

 ■「五輪は良い修業の場だった」 選手村食堂料理人、思い出のアルバム

 北九州市にある昔ながらの洋食店「キッチン叶」。店主の渡辺忠男さん(81)は、前回の東京五輪では代々木の選手村の食堂で働き、料理人として大会を支えた。

 当時、日本ホテル協会から全国のホテルに要請があり、大会中に働く料理人を集めていた。20代だった渡辺さんも勤めていた小倉日活ホテル(同市)から1964年の9月末から11月初旬まで、出向した。

当時勤めていたホテルから出された辞令や選手村での写真を眺める渡辺忠男さん

 アルバムには、当時の写真などが大切に貼ってある。宿舎で料理人仲間と写った1枚も。「宿舎は一部屋に2段ベッドが4台もあるようなところで何百人と料理人が集まっていた。毎日一緒にいるので仲良くなった」と振り返る。

 アルバムには「通門証」と書かれた、顔写真付きのカードもとじられている。選手村に入るために必要だったものだという。「毎日必ず門番に見せる。忘れた人は絶対に入れてもらえなかった」と渡辺さん。

 食堂で働く渡辺さんが写る写真もある。世界中から集まった選手たちが利用していた。調理場に掲示される献立表は、料理名や作り方が英語で書かれていた。「チキンクラポーダ」や「カツフライ」などがメニューにあったのを覚えている。

選手村に入るために必要だった通門証

 食堂では、水泳のアイドル選手だった故・木原光知子さんの弁当をよく作っていた、という渡辺さん。練習先などで食事するため、食堂に来ておかずを選び、弁当に詰めるよう頼まれていたそうだ。「ほかの料理人がうらやましがって、『サインをもらってくれ』なんて言われた」と笑う。

 まだ国内で外国人を見かける機会は多くないころだった。渡辺さんは外国から来た選手やスタッフと、積極的に写真を撮った。そのうち1枚を指さし、「彼らはアフリカの国から来たトレーナーで、あんまり背が高いから、自分は背伸びをして一緒に写真に写った」。こうした思い出の写真は宝物だ。

 その後独立し、洋食店を始めてから40年以上たった。東京五輪が再び巡ってくると知ったときには驚いた。「生で見たい気もするが、店のことがあるから」と笑う渡辺さん。80を超えた今でも、ほとんど年中無休で店を切り盛りしている。「自分にとって五輪は良い修業の場だった。また若い料理人たちが活躍して、五輪を支えてほしい」。エールを送った。 (黒田加那)

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