曹操のエスプリ「袞雪」 大串 誠寿

西日本新聞 オピニオン面

 毛筆は中国において、後漢の時代に広く普及し、さまざまな書体表現に達した。

 内陸の陝西省・漢中市北の褒斜道(ほうやどう)は長安(現西安市)から漢中盆地へ抜ける要路だったため、歴代王朝が険しい崖を削り、トンネルを掘った。漢中に近い石門隧道(すいどう)付近には多くの名筆が刻まれ、代表的なものは「石門十三品」と呼ばれる。三国志の魏王・曹操の書「袞雪(こんせつ)」はその一つだ。

 雪のように水しぶきを舞い上げつつ流れる褒河(ほうが)から想を得たと伝えられる。本来、水が滾々(こんこん)とあふれる様を表す「滾」を書くべきところだが意図的に「〓(〓は「さんずい」)」を省いた字をあてた。理由を尋ねた家臣に、曹操は褒河を指し「これは水ではないのか」と答えたという。つまり川の水と合わせて「滾」と読めというわけだ。

 故意に誤字を揮毫(きごう)して謎をかけるとは人を食った話だが、才智に富んだとされる曹操ならありそうな話だ。

 同種の逸話は陳寿の史書「三国志」武帝紀の注にもある。曹操は手詰まりとなった漢中の戦線から自軍を撤退させる命令を「鶏肋(けいろく)」の一言で示唆した。鶏肋は鶏ガラを指す。家臣たちは首をかしげたが、一人だけ意味を理解した。美味ゆえ惜しいが肉はないので捨てるに越したことはない、という含意の撤退命令と解いたのである。曹操の一言にはエスプリ(機知)が利いている。

 馬上でも学問に親しんだといわれる曹操。兵法書「孫子」が今日に伝わるのも曹操が残した注解書のおかげだ。政務においては、貴賤(きせん)を問わず英才を抜てきした「求賢令」、浪費を戒めた「薄葬令」が知られる。開明的だ。

 曹操は若き日に、腐敗官吏や門閥貴族の専横にむしばまれて崩壊する後漢王朝を見つめた。革新を力の源にした曹操にとって「三国志」の戦いは守旧派との抗争であった。

 十三品の一つ「石門頌(しょう)」は後漢帝国が爛熟(らんじゅく)しきった148年の書。政府文書の書体「隷書」で記される。曹操は215年と219年に漢中に進軍したので、石門の刻字群を見ただろう。そこに後漢の固陋(ころう)な権威を嗅いだはずだ。

 曹操は清廉な書風で一気に揮毫した。居並ぶ先達の書の中に堂々と「誤字」を大書した「袞雪」のエスプリは、旧弊を笑い飛ばす。

 (写真デザイン部次長)

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