平野啓一郎 「本心」 連載第112回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

「庶民がこれだけ苦しい生活を強いられてたら、そういう人も出てくるでしょう。」

 僕は、ニュースだけではなく、そこに寄せられたコメントまで学習してしまったらしい<母>のその言葉に動揺した。そして、

「お母さんは、そんな風には言わなかったよ。『どんな事情でも、テロで世の中を変えようとするなんて、間違ってるわよ。』って言ったはずだよ。『物騒な世の中で、恐(こわ)いわね。』って。」

 と訂正した。<母>は、素直に、

「そうだったわね。お母さん、おかしなこと言ったわね。」

 と思い直した風の表情をした。けれども、僕は初めて、母ならこう言っただろうという確信がないまま、<母>に言葉を覚えさせたという、落ち着かない感じを抱いていた。母だって、年齢と共に、様々な影響を受けて、何か意外なことを言ったりするはずだった。僕は、それを思いつけない。どうしても。――僕はただ、今、僕自身が、誰かから言って欲しい言葉を、<母>に言わせたのだった。

 第一、母なら当然、自分が命を落とすきっかけとなったドローンに対して、もっと複雑な反応を示すだろうと思ったが、僕はすぐに、その考えのおかしさに気がついた。

 <母>は死の四年前に設定されているのだから、ドローンと聞いても、何も感じない方が正しいのだった。

 そもそも、<母>の未来に、ドローンによる死が待っているわけではない。にも拘(かかわ)らず、僕は今度は、<母>がそれと気づかぬまま、ドローンの話をしているかのような不条理な憐(あわ)れみに見舞われた。

 混乱している。――僕が。
 
 その後、自分で調べて、僕は事件のあらましを知った。メディアは騒然としていたが、自分がまるで別世界に生きていたかのように、そこから距(へだ)てられていたことに奇妙な感じを覚えた。実際、人々がお気に入りの仮想空間に入り浸るようになって以来、僕たちは、この世界を共有している、という感覚を喪失しつつある。現実で起きた出来事でさえ、僕が今いるこの場所と連続したどこかという感じがしない。

 たとえ日本がなくなったとしても、それぞれに生きている仮想空間は、持続するのだから。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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