あのポスターの選手が福岡にいた 1964年東京五輪の「顔」

西日本新聞 一面 坂本 公司

夢の続き、後輩に期待

 福岡市に、56年ぶりの東京五輪を待ち焦がれる「いだてん」がいる。久保宜彦(のりひこ)さん(83)=同市早良区=は、6人の選手が一斉にスタートする瞬間を捉えた1964年東京大会公式ポスターで、モデルの1人を務めた。短距離走者として目指した東京の舞台には届かなかった。だが、まだ寒い春の夜、黙々とスタートを切り続けたあの日は、五輪と自身を結びつけるかけがえのない思い出だ。

 62年3月31日、東京・国立競技場。日没後の暗闇が濃くなる中、6人の選手がスタート位置に着いた。日本人は3人。東京急行電鉄(現東急)に所属していた久保さんら実業団の短距離ランナーだ。外国人3人は米軍立川基地から呼んだ陸上経験者の兵士だった。

 東京中からかき集めたという最新鋭の20台ほどのストロボで一瞬を照らす形式の撮影。当時、連写の技術はない。1回のスタートで1枚撮っては、その繰り返し。気温10度を下回る中、ランニングシャツ姿での撮影は20回を超えた。

 「きつくて寒かった」。米兵のスタートのタイミングが少し遅いのが気になり聞くと、「ジャンパー」との答え。高跳びや長距離走の選手も含まれていた。久保さんはスタート位置を1メートルほど後ろにずらした。30回は超えただろうか。号砲を聞き続ける夜を終えた。

 ポスターデザインを担った亀倉雄策さん(故人)が後日、撮影写真の中からすぐに選んだという1枚が同年5月に発表された。スターティングブロックを蹴って飛び出した6人を真横から撮った写真。久保さんは手前から2人目で前のめりに足を踏み出している。

 選手の躍動感あふれる写真は世界で反響を呼んだ。「こんなに立派なものができるとは」。ポスターは佐賀県鳥栖市の実家や、会社の社長室にも張ってもらった。誇らしかった。

 久保さんは64年の東京五輪の舞台に立つつもりだった。鳥栖高時代にインターハイ100メートルで初の10秒台の記録を樹立。早稲田大、社会人では日本代表選手候補の合宿にたびたび呼ばれた。前年のプレ五輪までは出場したが、注射で抑えていた右アキレス腱(けん)の痛みが止まらなくなった。練習のしすぎだったと思う。「腱を切るまでは走れない」。本番を目前に静かに現役を退いた。

 会社は東京五輪をきっかけに、ホテル開発に力を入れていた。新たな情熱の注ぎ先と見定め、69年からホテルマンの道を駆け、福岡市・天神のホテルで総支配人も務めた。

 退職から20年以上たつ。ポスターを眺めると、大舞台を逃した悔しさも込み上げる。でも今は納得できる。「多くの人に覚えてもらったポスター。僕はこれで五輪に関われた」

 短距離走の後輩が新たな国立競技場で輝くのを楽しみに待つ。高い壁だった「100メートル9秒台」を成し遂げた日本人選手3人の名を挙げ、うなずいた。「彼らはもっと伸びる。僕らの時代は外国人にかなわなかった。五十数年でみんな強くなった。だから楽しみなんですよ」

(坂本公司)

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