平野啓一郎 「本心」 連載第117回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

 刑事は、「リアル・アバター」という職業自体についても、折々、軽侮するような笑みを交えながら、根掘り葉掘り質問した。

 本当に自宅に帰してもらえるのだろうかという僕の不安は、狭い密室に長時間、拘束されていたためだけではなかった。

 僕は、もし岸谷から何かを誘われていたなら、あの「英雄的な少年」に付き従ったのと同様に、それに応じたかもしれないという自覚を抱いていた。そして、最も恐れていたのは、何かちょっとした言動や表情から、それを見透かされるのではないか、ということだった。

 それは、岸谷が、僕の「リアル・アバター」として、僕の中にあるこの世界への憤懣(ふんまん)をぶちまけてくれることへの期待と、実のところ、表裏ではなかったか?

 僕は決して、こんな破滅的なことを望んでいたわけではなかった。しかしそれでも、何かを求めていたのではなかったか? この世界を変えてくれる何かを。

 警察が、僕こそが岸谷に命令を下した首謀者だなどという間の抜けた推理を行ったのは、そのせいではなかったか。――

 

 事情聴取から解放された僕は、夕食も食べずに自宅のベッドに横たわった。

 重たい荷物を投げ出したような感じで、ふと、飛び降り自殺をする人というのは、ただもう、体がどうしようもなく重たいから、それを捨ててしまいたかったのではないかと、考えた。

 部屋の電気はつけず、半開きのドアから、文面のない手紙のような光が廊下から差し込んでいた。目を瞑(つぶ)った。母が様子を見に来てくれないだろうかと、僕は心から思った。「どうしたの? 大丈夫?」というたった一言さえ聞くことが出来たならば、僕の疲労はどれほど癒やされただろうか。

 もし近い将来、僕の身にこんなことが起きると予見できていたなら、母は安楽死を思い止(とど)まっただろうか? 僕はそれを理由に、せめてその時まで生きていてほしいと引き留めただろうか? 

 しかし、実際に母が生きていたなら、僕は心配をかけぬように、この一連の出来事を極力、隠そうとしたに違いない。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ