平野啓一郎 「本心」 連載第119回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

「そう言えば、朔也(さくや)に話さないといけないことがあったのよ。」

「――何?」

 僕は、珍しい話の切り出し方に小首を傾(かし)げた。

「この前、殺人未遂事件の話したでしょう? あなた、知ってる、お友達の岸谷さんが容疑者として逮捕されたの?」

「ああ、……うん。知ってるも何も、僕はそれで一昨日(おととい)は、一日事情聴取を受けてたから。」

「朔也も? あなたも何か関係してるの、あの事件に?」

 <母>は目を瞠(みは)って、口を半開きにしたまま、僕を見ていた。よく出来てるなと、僕はその表情を見ながら、野崎の顔を思い浮かべた。

「してたらここにいないよ。」

 僕は、<母>に一通りの話をして、この間の出来事を学習させた。<母>は、時々頷(うなず)きながら神妙な面持ちで聞いていたが、最後に、

「とにかく、あなたが犯罪に関わってないってわかってよかった。」

 と安堵(あんど)したように言った。

 母が生きていても、恐らく、そう言ったのではあるまいか。心があってもなくても、人が発することの出来る言葉には、そう大した違いがないのかもしれない。

 それでもとにかく、僕は、<母>から心配されている、という感じを抱いた。

 現実を生きる時間を出来るだけ短くして、いっそ、この仮想空間を現実と信じられるまでに至るならば、どれほど幸福だろうか?

 夜眠りについて、朝目が醒(さ)めた時に、ここにまずいることが出来るなら? 僕は、ヘッドセットをつけたまま寝るべきだろうか? 大事なのは、目を開けた時に、まず何が見えるかだった。……

 

      *

 

 翌日の夕方、矛盾するようだが、僕は無性に、三好と連絡を取りたくなって、メッセージを送った。台風の最中に、一度だけ、「そちらは大丈夫ですか?」と連絡していたが、返事がないままだった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ