【難民・アフガン 命を守る】⑧病魔 闘いに終わりは来ない

西日本新聞

 アフガニスタン東部出身のナビーは年齢不詳だが、一九五〇年代までは腕のいいきこりだった。六〇年ごろ、ロバの手綱を引く手が血だらけになってようやく、けがに気づいた。ハンセン病の感覚神経障害だった。

 最も近い専門病院は、はるか四百キロのパキスタン・ラワルピンディにあった。一年間入院して帰郷したが、両手の指が崩れ始めた。働けなくなり、パキスタンの難民キャンプに入った。足の指も崩れ始めた。

 八四年、ペシャワルのキリスト教系病院を訪ねた。着任したばかりの医師、中村哲(55)が無料で診てくれた。二十数年ぶりの受診だった。

 ナビーは中村のもとで入退院を繰り返し、十一回の手術を受けた。両手足の指はなくなったが、病気の進行は止まった。

 中村が現在院長を務めるペシャワール会医療サービス(PMS)病院には、ナビーら十人のハンセン病患者が入院。みんな十数年来、中村の治療を受けている。一―二カ月入院して投薬などをしてもらい、病状が落ち着くと帰郷する。

   □  □  

 中村が着任したころはムジャヒディン(イスラム戦士)とソ連軍が戦ったアフガン戦争のただ中で、三百万人に迫る難民が国境を越えてペシャワル周辺に逃げ込んでいた。パキスタン政府は、ハンセン病対策に取り組んでいたが、アフガン難民は取り残されていた。

 中村は、同僚のアフガン人医師ら六人とハンセン病医療チームをつくり、病院勤務と掛け持ちで難民キャンプでの巡回診療をスタートさせる。

 ムジャヒディンに手を焼いたソ連軍は八八年五月から撤退を始め、入れ替わるように難民の大規模帰還が始まった。

 三年にわたる巡回診療で、中村はハンセン病対策が迫られていることを思い知る。難民が帰還した先に、赤痢、結核、マラリアがまん延することも危ぐした。中村は日本で金策に走り回った。

 九二年以降、アフガン東部の無医地区、とりわけハンセン病患者が多いダラエ・ヌール渓谷など三カ所に診療所を設けた。ロバのキャラバンを組み、病人に会いにいった。

 罪なき民の惨状を目の前にしてだれが無関心でいられようか―。中村の医師としての本能、義憤は、ハンセン病医療チームを改組、発展させ、九八年にはPMS病院に結実させる。診療所は今、アフガンとパキスタンで十を数える。

   □  □  

 PMS病院に昨年末、バスの運転手ハイデル(55)が数年ぶりに入院した。右目が痛みだしたと、アフガン中部バーミヤンから四日がかりで来た。らい菌が眼球を侵している可能性があった。

 病院にはハンセン病登録患者が八十人おり、さらにハイデルやナビーのような患者も絶えない。有効な薬ができて、ハンセン病は治る病気となったが、長期にわたる投薬が必要であり、医療を受ける機会に恵まれない人々にとっては、重い合併症を引き起こす恐れは消えていない。

 中村は、アフガン難民キャンプでの巡回診療を思い出すとき、いったいどれほどの患者がアフガンにいるのか、と考え込む。

 ハイデルは、このまま自分の目が見えなくなったら十四人の家族は終わりだから、ここでしっかり治して帰りたい、と懇願した。中村ら病院スタッフは、ハンセン病との闘いに終わりはない、と思っている。(敬称略)

PR

国際 アクセスランキング

PR

注目のテーマ