平野啓一郎 「本心」 連載第121回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

 三好は、小さく鼻を鳴らしたが、それは笑ったようにも、涙ぐんだようにも感じられた。

「じゃあ、……いいの、そうさせてもらって? ゴメンね。」

「なんで謝るんですか?」

「そうね。ありがとう。」

 電話を切ると、僕は大きく息を吐いた。そして、散らかり放題のリヴィングを見渡して、急いで部屋の掃除に取りかかった。

 

 午後十時に駅まで迎えに行くと、三好は、大きな旅行カバンを肩にかけて待っていた。

 「こんばんは。」と言うと、また礼を言われた。「ボサボサだけど」と、気にしていたが、以前に会った時と同様に、身綺麗(みぎれい)に感じられた。

 出勤はしているらしく、旅館で就業時間後に入浴させてもらっているという。

 母が生きていたなら、もっと早く、うちに呼んでいただろう。そう伝えると、

「そう言ってくれたかもね。朔也(さくや)君のお母さんも、優しい、ほっとけない性格だったから。」

 と、もう少しだけ大きく笑えば、崩れ落ちてしまうような微笑で言った。

 僕は、ずっと亡くなった時のままにしていた母の部屋を少し片づけた。

 ベッドの側(そば)にあった衣装掛けや収納ボックスを僕の部屋に移すと、母の不在は、その分だけ大きくなった気がした。

 それでも、六畳の母の部屋に残った生の痕跡は、“友達”だった三好には、生々しすぎたようだった。

 案内すると、彼女は遠慮がちに足を踏み入れて、しばらく黙って中を見渡していた。それから、「なんか、……ふしぎな感じがする。」と言って、壁に掛けられた母の旅行の写真に目を遣(や)った。

「ここにいさせてもらうことになったってこと、朔也君のお母さんに、今一番、話したいかも。」

「そうですね。僕はきっと、いいことをしたって、褒められたと思いますけど。」

「あとでお母さんのVF(ヴァーチャル・フィギュア)にも報告しないと。混乱するかな?」

「どうでしょう。……台風のことはよく知っているので、理解すると思いますけど。」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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