平野啓一郎 「本心」 連載第122回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

 僕は、荷物を床に下ろして、所在なげに辛うじて立っている風の彼女に言った。

シェアハウスみたいな感じで、自由に使ってください。僕はこの部屋には立ち入りませんので。」

「……ありがとう。」

「必要なだけ、いてもらって構いません。母もここから旅館まで通ってましたので、そう遠くないと思います。」

「遠くないけど、……朔也(さくや)君も落ち着かないでしょう? 出来るだけ早く家を探さないと。」

「僕は気にしなくて大丈夫です。」

 三好は、また礼を言ったが、出て行こうとする僕を、まだ何か言い残した様子で見ていた。僕は足を止めて小首を傾(かし)げた。

「あの、……お言葉に甘えて、お邪魔させてもらったんだけど、わたしも、色んな経験してきたから、一応、事前に言っといた方が良いと思うんだけど、……」

「何ですか?」

 改まった、言いにくそうな口調だったが、しかし、その態度には揺るぎないものがあった。僕は、ようやく言わんとするところを察して、自分の方から、

「別に、何かの“見返り”を求めている、ということではないんです。」

 と言った。極力、静かに伝えたつもりだったが、三好は、僕の気分を害したのではと、年長者らしく心配した様子だった。

「ごめんね。どんなに親切でも、最後にはお礼にヤラせろ、みたいな人たちがウヨウヨしてる世界で生きてきたから、心が荒(すさ)んでるのよ、わたし。」

「普通だと思います。--女性ですから。」

「でも、違うの。朔也君が、そういう“見返り”を求めてくるとは思ってないんだけど、わたし、前に話したみたいな過去のせいで、セックス恐怖症なの。好きな相手でも、ダメなの、もう、体が拒否反応起こして。だから、……もし、フツーに友達として仲良くなっても、ハグとかそういうのも、難しいの。」

「わかりました。ハグしたりとかいう習慣もないですので、信用してください。」

 僕は、そう言ったが、<母>が語っていた、「首を絞められた」という三好の経験を思い出して、不憫(ふびん)になった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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