平野啓一郎 「本心」 連載第123回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

 そして、他でもなく、母のこの寝室で、晩年の母のほとんど唯一の友人だった三好を傷つけるという想像に、僕はおぞましさを感じた。それをしてしまえば、僕はこの世界に残された僕の最後の居場所――つまり、自分自身にさえ、もう居続けることは出来なくなるだろう。

 そんな「見返り」を求めるつもりは、最初から更々(さらさら)なかった。少なくとも、彼女にここに来るように言った時、ただ「役に立ちたい」と願っていたのは本心だった。

 けれども、そういう人間こそが、やがて愛の名の下に、悪気もなく抱くようになる欲望を、予(あらかじ)め牽制(けんせい)しておくという彼女の態度は、まったく理に適(かな)っていた。彼女は、僕の未来に待っていた酷(ひど)く無様(ぶざま)な失態を、予め取り除いてくれたのだった。

「もちろん、信用してるし、すごく感謝してるのよ。他のかたちではお礼をしたいし、生活費は出すから。」

「ああ、……はい。」

「朔也(さくや)君の方は大丈夫? 彼女とかいないの?」

 僕は、そうした質問自体に、まったく不慣れだった。

「はい、それは、大丈夫です。特にそういう人は、いませんので。」

 僕は、そもそも自分は、女性とつきあったことも、肉体的な関係を持ったこともないと付け加えようとした。しかしそれは、三好を安心させる上では何の意味もない事実であり、彼女が「そう、」と頷(うなず)いて、このやりとりを一旦(いったん)終えるに任せた。

 

 先に入浴してもらい、まだ髪が乾ききらず、肩にタオルを掛けているパジャマ姿の彼女に、麦茶を出した。

「あー、生き返った。……」

 と彼女は天を仰ぎながら言った。他人が喜ぶ顔は、どうしてこんなに僕を明るい気持ちにさせるのだろう?

 リヴィングの説明をして、僕も風呂に入った。

 浴室は湯気とともにシャンプーやボディソープの香りに満ちていて、あたたかかった。彼女の存在が、狭い空間のどこかにまだ、その名残を留(とど)めているかのようだった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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