平野啓一郎 「本心」 連載第127回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

「そうね、映画みたいかも。……でも、映画は実在しない世界だし、スクリーンの中にも入れないけど、あっちの世界には、ひょっとしたら行けるかもしれないでしょう? それが細(ささ)やかな希望。ほとんど無理だって、わたしだってわかってるけど。」

「なんか、……それでみんな、セレブのSNSをフォローしたりするんですかね。あっちの世界を、せめて疑似体験するために?」

「そうでしょう? わたしも何人かフォローしてる。自分では絶対に足を踏み入れられない世界の経験、シェアしてくれるから。プライヴェートジェットの中を見せてくれたり、有名人ばっかりのパーティに行ったり。」

「自慢されてるみたいで、嫌じゃないですか?」

「そう? その人たちだけで独り占めするよりいいと思うけど。」

 僕は、現実には独り占めしているのだと、その欺瞞(ぎまん)を更(さら)に指摘しようとしたが、三好は、この議論そのものに倦(う)んだように、曖昧に頷(うなず)いて、もう何も言わなかった。

 僕も、彼女と議論したかったわけではないので、そのきっかけを逃さず、口を噤(つぐ)んだ。会話には、<母>とのやりとりにはない一種の緊張感があり、それは、相手を怒らせてしまうかもしれない、という危惧の故だった。

 他方で、僕は人に命じられるがままの言葉を発している勤務中とは違って、自分の考えを口に出来ることの喜びを改めて噛(か)みしめた。岸谷が逮捕されてしまったために、生きている人間で、そういう相手は、今はもう三好だけだった。彼女の気分を害してしまったのではないかと、不安になった。

 三好は、抱えていた足を床に下ろすと、少し疲れたように、

「とにかく、……事情聴取は大変だったね、朔也(さくや)君も。」

 と口を開いた。僕は、彼女の髪が、いつの間にかかなり乾いているのを見ながら、この話題の潮時を受け容(い)れた。ダイニング・テーブルに半身を預けたまま、

「はい、でも、大丈夫です。」

 と頷いた。

 一種の気づかいから、僕はこのあと、一時近くまで三好の避難所での生活について話を聴いた。彼女自身も、そのつもりもないまま、語り出すと止まらなくなった風だった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ