平野啓一郎 「本心」 連載第132回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

 事件後は、警察での事情聴取のために、既に引き受けていた仕事の変更を願い出ていたが、それにまたくどくどしく注意が届いた。

 更(さら)に先日、三好の看病によるキャンセルで、次に問題を起こせば、三ヶ月間の業務停止と違約金の発生という具体的な通告を受けていた。

 僕はそれに自尊心を打ち砕かれ、憤っていたが、同時に、この仕事も辞め時かもしれないと初めて考えた。少なくとも、結局、岸谷の精神をも見舞った危機が訪れる前に、自分から離脱するべきではあるまいか。――しかし、他に今と同等の収入が得られる仕事の当てがあるわけではなく、マンションのローンの残りを考えれば、せっかく始まった三好との生活を維持するためにも、せめて猶予が必要だった。……

 

 この日は、初めての依頼者で、リアル・アバターのサーヴィス自体もこれまで利用したことがないとのことだった。アカウントの写真は、眼鏡をかけた、若い、僕とそう年齢も変わらないであろう、大人しそうな青年だった。

 依頼内容は、入院中の人の見舞いで、ただ、世話になった人なので、スーツを着用してほしいという要望が付されていた。僕は、仕事用に持っている紺のスーツを着て自宅を出た。三好が見たがっていたが、既に家を出ていたので、写真を撮って送った。彼女からは、

「おー、カッコいいー! 高給取りの会社員に見える(笑)」

 という絵文字つきの返事が届いた。

 台風の翌日独特の、無神経なほどに美しい青空だった。足許(あしもと)の散らかり具合に反して、空気は町全体を清浄機にかけたかのように澄んでいた。

 十月というのに、朝から真夏のように蒸し暑く、約束の正午には、気温は三十度に達しつつあった。街ゆく人々も、ほとんどが半袖で、ノースリーヴの女性もちらほら目についた。

 四季の変化がおかしな具合になって以来、夏服をいつしまうべきか、というのは、この時季のお決まりの、誰にでも通用する無難な話題だった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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