平野啓一郎 「本心」 連載第133回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

 僕はまず、青山にある高級スーパーで、メロンを二つ、買うように指示されていた。表参道の駅で依頼者と接続したが、彼は、僕がジャケットを着ずに手に持っていることに、強い口調で不満を言った。

「最初から着用していてください。」

「病院に着いてからでは不都合でしょうか? 今日はかなり暑いので、着ていると汗だくになってしまいそうで。」

「いいから着ていてください。そういうお約束でしたので。」

 依頼者のモニターはオフになっていて、僕にはそのアイコンの写真しか見えなかったが、声は思い描いていたのとは違い、威圧的な印象だった。

 僕は、そんな約束はしていないと反論しようとした。普段なら、こうしたケースでは、条件を再確認するはずだったが、この日はなぜか、それをしなかった。このあとも、大半は地下鉄での移動で、スーパーもすぐ近くだから、というのがまずあった。相手の反論を赦(ゆる)さない口振(くちぶ)りに、気圧(けお)されてしまったところもある。あまり好ましい依頼者ではなさそうだったが、会社との契約状況を考えると、あまり事を荒立てたくなかった。

 感情を無にして、ただ彼の望み通りに動くということが、この仕事の基本だった。

 

 依頼者は、桐箱(きりばこ)入りの「極上」のブランド・メロンを二個、希望していて、店を指定したのも彼だった。

 駅から十分ほど歩いただけで、ジャケットの下が蒸れ、額から汗の雫(しずく)が落ちてきた。

 僕は、以前に「臭い」と言われて評価を落とした時のことを思い出し、不安になった。病室は個室らしかったが、窓を閉め切ってクーラーで冷やしてあるその部屋で、入院患者は、ドアを開けて入ってきた僕の体臭に顔を顰(しか)めないだろうか。……

 スーパーに着くと、生鮮食料品売り場に直行した。さすがに少し涼しかったが、頭からは却(かえ)ってそれをきっかけに汗が噴き出してきた。濡(ぬ)れた襟足が冷たくなって、一層、不快に感じられたからかもしれない。

 メロンは、僕の目よりも少し高いくらいの棚に、四個、並べて陳列されていた。一個、一万八千円だった。

「手に取ってみて。」

「はい。」

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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