戦国九州の生き地獄

西日本新聞 オピニオン面 上別府 保慶

 新潟県民が誇る武将の上杉謙信は、歴史ドラマでは同盟者との信義を守るために出陣を繰り返した「義」の人として描かれる。

 ところが、あれは侵略戦争だったと喝破したのが、ほかでもない新潟出身の歴史学者、藤木久志さん(立教大名誉教授)だった。

 新潟には米どころの印象がある。それは江戸時代に新田が開かれ、昭和に米の品種改良が進んだからだった。戦国時代はむしろ貧しく、謙信は領地や食料を奪うために出征したと藤木さんは考えたのだ。

 略奪が日常の時代だった。武田信玄も徳川家康も、他国に侵入すると実った稲を刈り取る「刈り働き」をした記録が残る。藤木さんは無法が横行した背景に飢餓があったと考え、1993年、東日本が冷夏による大凶作に見舞われたのをきっかけに中世の気象や災害のデータを集めた。

 すると戦国期の合戦は、長雨による寒冷化などで飢饉(ききん)や疫病が頻発したさなかに、生きる糧を争って戦われていた様相が浮かび上がってきたのだ。

 藤木さんは分析のあらましを「飢餓と戦争の戦国を行く」(吉川弘文館)という本で紹介したが、この中の「九州戦場の戦争と平和」の章で、古文書の記述を交えつつ私たちが住む九州の庶民がなめた辛酸を分かりやすく解説する。

 例えば、薩摩の島津軍が大友領の豊後へ攻め込んだ際は、女性や子供を中心に大勢の人を捕らえて肥後で売った。これらの人々はさらに島原半島でポルトガル人などが買い取り、東南アジアで奴隷にされたという。(ルイス・フロイス「日本史」による)

 「乱取り」と呼ばれた戦場の奴隷狩りは島津軍に限った話ではなく、大友軍もまた筑前の宗像郡で人々を捕らえた。このため数千人が沖合の大島などへ逃れたという。(「宗像市史 史料編中世」2より)

 戦場となった村々は飢餓に陥り、難民は町へ流入。ペストとみられる疫病も流行した。そこへ豊臣秀吉の大軍が九州平定に乗り込み惨状はさらに深まった。

 ドラマが英雄の視点から描きがちな戦国時代の実相は、名も無い庶民たちの生き地獄であり、それは気候変動や災害と深い関係があった。藤木さんは「私たちは戦国の動乱を少し楽観的に見すぎていたのではないでしょうか」と説く。

 藤木さんの研究成果は小説や漫画にも色濃く反映されており、今年の大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」にもそれを感じさせる場面がある。

 藤木さんは佐賀や大分など九州各地の史跡研究の集いに招かれてよく講演し、気さくな人柄で親しまれた人だった。昨年9月28日、敗血症のために神奈川県の病院で死去。85歳だった。

 (特別編集委員・上別府保慶)

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