平野啓一郎 「本心」 連載第136回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

 そして、

「――もういいから。」

 と、急に憐(あわ)れむような、隣近所の子供に向かって大人が言うような口調で呟(つぶや)き、下を向いて包装を剥がし始めた。イヤフォンから、「態度悪い店員だな。」という声が聞こえ、続けて何か言っていたが、僕はそれを聴き取らないまま、もう一度、「すみません。」と謝って、その場をあとにした。

 

 それから、僕は日本橋の別の果物店に始まり、丸の内、銀座、築地と、言われるがままに徒歩で移動し、同じようにメロンを購入しかけては、途中で止(や)める、という馬鹿(ばか)げたことを繰り返した。いずれも、電車に乗るだけ手間がかかるというような微妙な距離だった。

 気温は予報通り、三十度まで上がり、湿度も高かった。僕は、ゴーグルの下から指を入れて、目に染みる汗を何度も拭った。外気よりも、当然に体温の方が温度が高いことを、火照った頬でずっと感じていた。

 日差しが強く、木の葉が散った歩道の上の僕の影は濃かった。

 二時間半も歩き通しで、ワイシャツは、ぐっしょりと濡(ぬ)れてしまっていたが、僕はもう構わなくなっていた。

 ゴーグルに表示される指示にただ従っていただけなので、ビルの谷間で、自分が一体、どこを歩いているのかさえ、時折、わからなくなっていた。

 あとから思えば、どこかで拒否すべきだった。けれども、こんなに蒸し暑くなく、スーツを着込んでいるのでなければ、必ずしも無理な距離ではなかった。依頼者のわがままには慣れているので、この程度なら、四時間の契約時間をどうにかこなせるはずだった。

 僕が耐え難かったのは、この依頼が、僕をただ、嘲弄(ちょうろう)するためだけの目的であることが、最早(もはや)、疑い得なくなったことだった。

 依頼者は、一人ではなく、少なくとも四人いて、途中から、せせら笑いをもう隠さなくなっていた。

「ハアハア言ってるな。」という呟きが聞こえ、「暑い?」などと、揶揄(からか)うように直接、問いかけられた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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