【動画あり】耳納の山城、魅力満点 吉見岳城には秀吉が布陣

西日本新聞 筑後版 片岡 寛

 世間は空前のお城ブームらしい。その波に乗っかったわけではないが、過去のちくご探Qでは、久留米藩主の居城だった久留米城(福岡県久留米市篠山町)や、初代柳川藩主立花宗茂の妻、〓(ぎん)千代姫が生まれたとされる赤司城(同市北野町)など、平野部の城跡を巡り、見どころを紹介してきた。今度は耳納連山に点在した「山城」に注目したい。久留米市文化財保護課の小澤太郎さん(50)と一緒に歩いた。

 最初に向かったのは、高良山の森林つつじ公園近くの毘沙門岳(びしゃもんだけ)城。小澤さんによると、高良山付近には毘沙門岳城を含め山城跡が六つもある。耳納連山の西端に位置し、筑後平野を一望できるため、戦略上の要衝として中世から戦国時代にかけて、多くの山城が築かれた。

 毘沙門岳城は、14世紀の南北朝時代の大原合戦(筑後川の戦い)で、南朝方の懐良(かねなが)親王(後醍醐天皇の皇子)が拠点を置いたと伝わる。筑後川を挟んで北朝方と対峙(たいじ)した合戦には、両軍合わせて数万人が参加。関ケ原、川中島と並び、日本三大合戦の一つに数えられることもある。

 本丸部分の手前には、横堀の跡が確認できる。幅2~3メートルはあるだろうか。「堀の途中に土橋のような盛り上がった場所があるでしょう。城に攻め込む敵兵をそこに誘導して、狙いやすくしています」と小澤さん。これほどはっきりした形で残っているとは驚いた。

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 続いて、同じく高良山にある吉見岳城へ。毘沙門岳城の北西に位置し、高良山の最前線基地と言える場所だ。九州征伐に来た豊臣秀吉が布陣したことで知られる。秀吉への忠誠を示すため、周辺の諸勢力がこぞって城に集まったという。

 三の丸からは、久留米市街地が見渡せる。秀吉もこの場所に立って、戦後の国割りを思案したのだろうか。眼下には、尾根を断ち切って尾根伝いに侵入する敵を足止めする「堀切(ほりきり)」や、斜面を削って断崖状にした「切岸(きりぎし)」など、山城の特徴的な構造が残っている。

 実は、吉見岳城に参陣しなかった豪族がいた。源平合戦のころから約400年にわたって現在の久留米市草野町周辺を治めた筑後草野氏。その家柄や勢力の大きさから北筑後の豪族のリーダー的存在だった。諸説あるが、当主の草野家清は、居城の発心城に立てこもり、秀吉の不興を買う。

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 そうなると、最後は発心城へ。高良山から耳納スカイラインを車で25分ほど。中腹にあった居城の竹井城に不安を感じた家清が、発心山山頂に数年がかりで築いた。本丸を中心に周囲に郭や土塁、堀切を配置。広さは南北300メートル、東西350メートルに及び、攻め寄せる豊後・大友氏や高良山の宗教勢力を退けるなど、難攻不落を誇ったという。

 なぜ、家清は秀吉に反抗するような態度を取ったのか。戦国時代の筑後地方は、周辺の有力大名が覇権争いを繰り返し、当初は大友方だった草野氏も島津方に付いていた。小澤さんは「大友を裏切って島津に味方した草野氏にとって、大友の救援要請で九州に来た秀吉の前にのこのこ出て行くのは、ばつが悪かったのでは」と推察する。

 久留米市史によると、家清は後の「肥後国人一揆」に加担した疑いをかけられ、秀吉の家臣に殺害される。多くの家臣が後を追って自ら命を絶ったという。これで筑後草野氏は断絶するが、一部は大分・日田に逃れた。江戸時代にろう作りや金融業で財をなし、国重要文化財の草野家住宅(日田市豆田町)で知られる草野本家のルーツに当たる。

 発心城から久留米、うきは方面を見渡すと、これまた絶景。天気が良ければ太宰府付近まで眺望できそう。「山城は冬が見ごろです。夏は草木が茂って大変」と小澤さん。季節的にもぴったりの企画だったようだ。地域の歴史に思いをはせ、山城の魅力を存分に味わえた一日だった。 (片岡寛)

※〓は「門構え」に「言」

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