平野啓一郎 「本心」 連載第138回 第七章 転機

西日本新聞 文化面

 傍らを、車が規則正しく列を作って走り抜けていく。

 あの先の左手のビルとビルの谷間から、突然、波濤が襲ってくる、ということはあり得るのだろうか? 僕は驚いて、車道に飛び出してしまうだろう。ああ、僕はその時、誰として死ぬんだろうか? 僕に我(わ)が物顔で居座っている三人も、一緒に殺されるということはあるのだろうか? 僕は、“死の一瞬前”に、何を思うだろうか? まだ早すぎる。僕はまだ、その時、誰を思い浮かべるべきか、わからないままだというのに。……

 

 最後に築地まで歩いて、予想通り、結局、メロンを買わないまま、終了時間も間近となった。知人の見舞いに行くというのも、そのためにスーツを着てほしいというのも、すべて作り話だったのだろう。

 店を出たあと、まだ十五分ほど残っていたが、依頼者たちは、

「よし、もう一軒行ってみよう!」

 と言い、残りの一人が声を上げて笑い、もう一人が欠伸(あくび)をした。

「リアル・アバターって、ホントに何でもやるんだな。スゲェよ、マジで。いや、楽しませてもらったわ。人も殺すな、こりゃ、言われれば。」

 感心したように、そう言う声が聞こえた。岸谷の事件で、この仕事を知ったのだろう。

 足許(あしもと)が少しふらついて、酷(ひど)く喉が渇いていた。持参した水筒は、とっくに空になっている。目眩(めまい)がして、視界が明るく乾いて、罅割(ひびわ)れてゆくような感じがした。熱中症ではないかと疑った。

 一言断れば良かったが、その余裕もなく、僕は信号を渡ったところにあるコンビニに向かった。

「おいおい、どこ行くんだよ? 時間、まだだろう? ひょっとして、怒ってる? 怒っちゃった?」

 また笑い声。――僕はジャケットを脱いで、ネクタイを引きちぎるようにして更(さら)に緩めた。酷く具合が悪かった。一リットルの水を一本、選ぶこともせずに掴(つか)んで、レジに向かった。依頼者は、急に意のままにならなくなった僕に苛立(いらだ)って、大きな声で喚(わめ)いていた。

 カウンターでは、五十がらみの男性客が、東南アジア系らしい女性店員に何かを執拗(しつよう)に問い質(ただ)していた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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