追った人と残した人 河合 仁志

西日本新聞 オピニオン面 河合 仁志

 NHKのアナウンサーだった故宮澤信雄さん(2012年に76歳で死去)が、熊本県衛生研究所の元職員松島義一さん(故人)からある資料を入手したのは1971年4月のことだ。60~62年に熊本県が不知火海沿岸住民約2700人を対象に実施しまとめた「毛髪水銀検査成績書」。そこには一人一人の毛髪に含まれる水銀量が、住所・氏名・性別・年齢・毛髪の採取月日とともに一覧表で記されていた。

 政府が68年に公害認定した水俣病は、メチル水銀に汚染された魚介類を多食することで発症した。どれだけの水銀を取り込んだかは、毛髪によって判断することができた。

 「心がおどった」。著書「水俣病事件四十年」に、宮澤さんは追い求めた資料を目にした時の興奮ぶりを記している。当時、熊本放送局勤務の傍ら、被害者支援に取り組んでいた。故川本輝夫さんら未認定の患者たちが認定を求め、国に行政不服審査を請求していたのもこの頃だ。

 一覧表は、川本さんたちの患者認定に有利に働き、水俣病の被害拡大を示す貴重なデータとして事件史にその名を刻む。それでも、宮澤さんは「遅きに失した」と悔やんだ。既に亡くなっていた人が少なくなかったからだ。

 宮澤さんが発見するまで、熊本県は成績書の存在を否定し続けた。「公害補償と関連があるので慎重を要する」。認定患者かどうかを実質的に判断する審査会に県が伝えた方針が、成績書を「ない」ことにした背景を物語る。高度成長期、化学企業チッソを優先する県の姿勢が住民の健康被害を放置した、とされる。

 71年と言えば、日本に初めて国立公文書館が設立された年でもある。情報公開制度や公文書管理法が整備されるのは、30年ほどたった平成の時代になってから。それまでは、宮澤さんのような個人の努力なしに、こうした文書の発掘は困難だっただろう。

 宮澤さんの追跡から半世紀がたとうとしている。それなのに、水俣病と同様、不都合な真実を覆い隠すためなのか、「消える公文書」が後を絶たない。整備されたはずの法律や制度の下で改ざんや隠蔽(いんぺい)、加工や記載漏れといった事態が次々と明るみに出る。公文書を扱う官僚たちによる首相や政権中枢への「忖度(そんたく)」が、たびたび指摘されている。

 「(成績書が)何らかの形で生かされないかと思っていた」。宮澤さんに資料を託した松島さんはこう語ったという。隠さなければいけないような仕事はしていない-。行政マンとしての誇りが、そう言わせたのかもしれない。

  (東京報道部)

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