ライオンとライオンズ 塩田芳久

西日本新聞 オピニオン面 塩田 芳久

 プロ野球の西武は今年、チームの名称「ライオンズ」の誕生70年を記念した特設サイトを作り、歴史を紹介している。福岡が本拠地のパ・リーグ西鉄クリッパースと、セ・リーグの西日本パイレーツが合併し、市民公募でチーム名がライオンズに決まったのが1951年2月だ。以来、親会社は代わってもライオンズの名は受け継がれてきた。

 51年2月21日、本紙に「合併新設球団ニックネームを募集」の記事が載った。1週間足らずで5万3千もの応募があり、同28日に球団幹部らの審査でライオンズに決まった。西日本球団代表の具島勘三郎氏は「少年ファンにとって、もっとも親しめる名前である」とコメントしている。

 しかし-。疑問が浮かぶ。なぜ市民はライオンを推したのか? わずか1年前の50年1月、西日本球団が公募でパイレーツに決めた時は最終候補にもならなかったのに。

 ライオンに関する50年1月以降の“ある動き”に着目すると答えが見えてきそうだ。当時、現在の福岡市動植物園はなかった。戦前は東公園(現博多区)にあり、ライオンもいた。しかし戦局悪化で44年に閉園となり、ライオンはカバやトラと共に処分された。

 戦争が終わると、市民から動物園の復活を望む声が上がった。50年3月、当仁小・中の児童生徒が街頭で開園に向けた署名活動をした。市議会も設置の動きを進め、この年は場所を現在の南公園とすることを決めた。

 市の動物園とは別に本社の民生事業団が49年12月、中洲の玉屋デパート屋上に小動物園を開いている。ライオンが来たのは、チーム名が決まった後の51年7月だったが、50年8月にゾウがやって来て人気となった。子どもたちに夢を与える動物たち。戦後復興の象徴としての動物園。市民がパイレーツの頃よりも動物に関心を持ち、百獣の王ライオンをチーム名に推したと考えるのは早計だろうか。当時のプロ野球のチーム名は半数が動物由来であった。

 古い西日本スポーツの紙面で、こんな逸話を見つけた。後に西鉄球団社長となる西亦次郎(またじろう)氏は49年、西鉄による動物園新設計画に携わっていた。上京して動物園を見学するついでに、プロ野球の地方興行の相談で日本野球連盟を訪れた時、「西鉄も球団を持ちませんか」と持ちかけられた。翌年、西鉄クリッパースが生まれ、ライオンズにつながった。西氏は「動物園を見に行ったら、思いがけないライオンを手に入れた」と述懐している。動物園とライオンズは分かち難い縁がある。 (くらし文化部編集委員)

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