アイドル編<452>桑江知子(中)

西日本新聞 夕刊 田代 俊一郎

 シンガー・ソングライターの桑江知子は二つの故郷を持っている。生まれた沖縄と育った街の福岡である。5歳のときに父親の仕事の都合で沖縄から福岡へ転居、別府小、城南中から西福岡高(現・福岡講倫館高)までの間、この地で過ごした。

 「小学校のころから音楽の時間で歌うことが好きでした」

 桑江と音楽との出合いは授業の中であった。あこがれの歌い手を意識したのは中学2年生ごろで、ラジオやテレビで聴く尾崎亜美の歌声だった。尾崎は「マイ・ピュア・レディ」のヒット曲のほか「オリビアを聴きながら」など多くのミュージシャンに楽曲を提供していたシンガー・ソングライターだ。同じころ、渡辺プロダクションが設立した東京音楽学院福岡校にも通い始めた。

 「私が歌を好きで歌手になりたい夢を持っていました。若いころ歌手だった叔母がそれを知って紹介してくれました」

 デビューのきっかけになったのは同学院の全国の生徒が集まるオーディションだった。高校3年生の桑江も参加した。優勝ではなかった。

 「たまたま見に来ていた渡辺プロのプロデューサーの目に留まったということでした」

   ×    ×

 高校卒業後に上京、翌年の1979年に「私のハートはストップモーション」(作詞・竜真知子、作曲・都倉俊一)でデビューした。19歳だった。

 <ああ 私のハートはストップモーション あなたに出逢ったまぶしさに…>

 この曲はポーラ化粧品のCMソングで流れたこともあってヒットした。年末の日本レコード大賞の最優秀新人賞を獲得するなどさまざまな新人賞を独占した。最初のシングルがいきなりビッグヒットになることは夢のような出来事であった。ただ、この曲について桑江は戸惑いを感じた部分もあった。

 「バラードが好きだったのでピンとこなかった」

 歌わされる歌と歌いたい歌。この齟齬(そご)感や距離感は桑江に限らず、あまたの新人歌手に共通するものだ。その中で人知れず消えていく歌手は少なくない。一方で、ヒットという栄光を手にした者はそれゆえに背負わなくてはならない重圧があることも確かだ。

 桑江はこのヒットの後も順調にシングル盤をリリースしていく中で、自分の歌を求めての模索も続く。1993年、「別れても好きな人」のヒットなどで知られるムード歌謡グループ「ロス・インディオス」のボーカルに参加する。

 =敬称略 

  (田代俊一郎)

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ