平野啓一郎 「本心」 連載第162回 第八章 新しい友達

西日本新聞 文化面

「もしご興味を持っていただけるようでしたら、お母様に愛読書を学習していただきたいのです。お好きだった藤原亮治の本とか。あと、今流行(はや)っている本も。読書家の方ほど、話し相手がいなくて、施設で寂しくされていますので、ニーズがあります。」

 僕は同意して、申し込みに必要な手続きの詳細を送ってもらうことにした。パソコンから目を逸(そ)らすと、しばらく窓辺で、何の変哲もない初秋の街並みを眺めていた。

 ≪縁起≫を経験して以来、何を見ても、あの宇宙の光景が脳裡(のうり)をちらついた。僕の見ている少し霞(かすみ)がかった空も、古びた鼠色(ねずみいろ)の瓦屋根も、錆(さび)の目立つ街灯も、幻影と疑われまいと、固唾(かたづ)を呑(の)んでじっとしている風情があった。

 

 ――その夜、僕は生まれて初めて、自分が宇宙にいる夢を見た。

 明らかに、就寝前にまた、≪縁起≫の世界に浸っていたせいだったが、起きたことは、地球上の夢と同様に、支離滅裂だった。

 僕は、土星の周囲を回るタイタンという衛星の川を、自動操縦の白い探査船に乗って航行していた。

 船の後部は、中華料理屋の外壁に設置された換気口のような形状で、そこから、窒素だか何だかを取り入れては、エネルギーに変えて推進しているのだった。

 水は、銀色の光沢を帯びた、深緑のような、黒のような、複雑に混ざり合った色だった。僕は、それを見ながら、「しかしこれは、水じゃないんだな。……」と考えていた。

 切り立った、優に二〇〇メートルはありそうな、白い氷山のような絶壁が、方々に屹立(きつりつ)していた。シンガポールの植物園にある、巨大な人工樹のようなかたちのものも紛れていた。

 僕は、船の甲板に仰向(あおむ)けに寝て、空を見上げていた。薄暗いが、曇っているわけではない。地球上では決して見たことのない神秘的な色合いで、僕は、土星は太陽から随分と遠いはずなのに、案外、明るいんだなと考えたりしていた。

 小雨が絶え間なく降っていたが、それは、メタンの雨だった。こんなのを浴びて、大丈夫なんだろうか、と僕は思った。先ほどから何滴か、口の中にも入っていた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

PR

文化 アクセスランキング

PR

注目のテーマ