軍都に一変させた「東洋一」の工場 戦時下“紫電改”など製造 長崎・大村

西日本新聞 長崎・佐世保版

 第21海軍航空廠(しょう)が稼働していたのは太平洋戦争開戦直前の1941年10月から終戦までの4年弱でしかない。だが「東洋一」とも呼ばれた軍需工場の誕生は農地が広がっていた地域を軍都に一変させ、長崎県大村市誕生のきっかけとなった。

 建設予定地は当初、佐世保市日宇だったが、地盤が軟弱だったため、海軍の航空基地があった大村に変更。39年に用地の測量や買収が始まり、急ピッチで建設が進められた。

 規模については諸説があるが、2016年発刊の大村市史近代編が紹介した資料では大村の廠内敷地だけで最大216ヘクタール。周辺には職員や工員の住宅、学徒の寄宿舎など1324棟が立ち並んだという。このほか佐世保市や沖縄、中国にも傘下の分工場や補給工場を擁していた。

 工場では航空機の製作過程を分割して流れ作業で行う独自の「タクトシステム」を採用。戦闘機「紫電改」や爆撃機「流星」、偵察機など867機を製造したほか、機体の修理なども行った。

 1942年2月には航空廠本部があった大村町と周辺5村が合併して大村市が誕生。市内の有力者による軍都建設期成会なども結成された。人口は合併当初の3万9572人から、工場拡張後の43年末には6万7728人と激増している。

 だが44年10月の空襲で壊滅的な打撃を受け、建物の半数が焼失、半壊。その後は佐賀県や諫早市などに疎開工場が造られ、終戦を迎えた。

 遺構は現在、大村市内に点在する。本部の地下式防空壕(ごう)(古賀島町)が市の指定史跡となっているほか、戦闘機などを収納した格納庫は海上自衛隊大村航空基地(今津町)で現役として使われている。一方で、十分な調査や保存が行われないまま放置されている遺構も少なくない。

 同市の地域づくりグループ「活(い)き活(い)きおおむら推進会議」は2003年に航空廠の写真集「楠のある道から」を出版、その後も地元の中学生と遺構を巡る学習に取り組む。代表の為永一夫さん(70)は「終戦後も工員住宅が満州などからの引き揚げ者に払い下げられるなど、航空廠の遺産は戦後の大村市発展にも寄与した。その歴史を後世に伝え、平和教育にも役立てたい」と話す。

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