「沖縄そば」伝統の製麺法守り抜く 創業115年、4代目の思い

西日本新聞 もっと九州面 小川 祥平

◆ラーメン のれんのヒストリー 替え玉(4) きしもと食堂(沖縄県本部町)

 小麦粉にかんすいなどアルカリ剤を加えた中華麺を使う料理が広まったのは明治、大正以降のこと。横浜、神戸といった港町で「支那そば」などの名で食べられるようになり、現在のラーメンにつながったとされる。中国に近い九州でも同じようなことが当然起きた。長崎はチャンポンだろうか。沖縄に目を向けると「沖縄そば」がそれにあたる。

 「昔は『支那そば』って呼んでいたらしいです」。沖縄県本部町にある老舗「きしもと食堂」の4代目、仲程弘樹さん(41)はそう話す。始めたのは仲程さんの曽祖父母、岸本恵愛さんとオミトさん。1905年創業は、現存する沖縄そば店で最も古い歴史を持つ。

 夫婦のルーツは中国にあった。先祖が大陸から海を渡り、那覇の唐人集落・久米村に移り住んだ。ところが大きな歴史のうねりに一族の暮らしは揺るがされる。明治維新、その後の琉球処分で生活は一変。混乱の中で新天地を求め、琉球漆器の職人だった恵愛さんは本部町に工房を構えた。

 そば店開業の経緯もおもしろい。漆器には豚の血が使われ、物々交換の習慣も残っていた。そこでオミトさんは一計を案じた。

 「そばは久米村での家庭料理。血だけでなく骨も仕入れ、そばを作って支払いに充てた。さらに工房横で食堂を始めたそうです」

 やんばる船が行き交い、流通の拠点としてにぎわっていた本部町で「那覇から来た支那そば」は人気となった。

   □    □

 沖縄生麺協同組合(那覇市)によると、琉球王国時代に中国から伝わった宮廷料理が沖縄そばのルーツとされる。明治中期に庶民向けの支那そば店が出現し、徐々に沖縄独自の味が形成されていった。「沖縄そば」の呼称が一般化するのは戦後だという。

 一貫して「そば」と呼ばれてきたが、そば粉は使わず主原料は小麦粉。また、伝統的にアルカリ剤として木灰汁を使ってきたのも特徴だ。今となっては大半の店がかんすいを使用するが、きしもと食堂は昔ながらの製麺法を守る数少ない店の一つである。

 仲程さんがその作業場を案内してくれた。一角に大きな鍋を備えたかまどがある。毎朝、薪(まき)を燃やして湯を沸かし麺をゆでる。残った灰を水と混ぜ、数日かけて沈殿させる。上澄みをすくったのが木灰汁で、次の麺を作る際に使う。「まさにリサイクルでしょ」と仲程さんは笑う。

 話していると隣の厨房(ちゅうぼう)からはいいにおいが。つられて一杯をお願いした。ほんのり茶色がかったスープ。口に含むと豚骨は控えめで、かつおだしの香りが鼻を抜ける。「木灰を使うと麺にコシがでるんです」。太めの平麺は確かにコシが強い。ぐにゅっとかみ込むたびに小麦の風味が追いかけてきた。

   □    □

 店の礎を築いたのは仲程さんの祖母で2代目の佐久川カナさん。「やさしく、働き者」で、88歳まで現役だった。病気で倒れた際には、店を閉めることも話し合われたという。しかし地元から「やめないで」との声が上がり、仲程さんの母、静子さんが継いだ。

 そんな老舗は今世紀に入り、大きな変化を経験している。2001年、NHKの「ちゅらさん」で沖縄ブームが起きた。翌年、本部町に「沖縄美(ちゅ)ら海水族館」が開業。観光シーズンは行列ができるようになった。

 会社勤めをしていた仲程さんも店に駆り出されるようになる。「あんたがそば屋をしなさい」。いまわの際にカナさんから言われた言葉もよみがえってきた。手伝ううちに会社を辞め、4代目となった。05年には本店近くに作業場を兼ねた支店をオープンさせ、客の増加に対応できる態勢を整えた。ただ状況が変わっても昔の麺作りを貫く。

 「お金も手間もかかるけど伝統を守るのは老舗の責任だから。木灰そばをできるだけ長く続けたい」

 そう力強く語る仲程さんは、2男5女の父親でもある。創業115年の老舗はまだまだ歴史を重ねていく。 (小川祥平)

 =月1回掲載

PR

九州ニュース アクセスランキング

PR

注目のテーマ