あの映画その後

「人の気持ちもつながりも放射能は壊した」飯舘村の元酪農家は嘆いた (2ページ目)

西日本新聞 吉田 昭一郎

事故前の2割しか帰村せず

 飯舘には事故前の2割の約1200人しか帰村していない。長谷川さんの長男家族も戻らず福島市に家を建てた。「放射線が孫たちにどう影響するか分からない。戻るべきではない」と受け止める。

 戻ったとされる高齢者も生活の根拠は避難先だった福島市など村外に置き、時々、村に来る人が目立つ。「草刈りや手入れが要る夏はまだしも冬はめったに来ない。都会暮らしに慣れ、買い物や通院に便利な暮らしから離れられない。村の家はどんな立派でもセカンドハウスになってるんだな」

 震災前、飯舘の農家は父親が営農し息子は勤めに出て休日に手伝うという兼業農家が多かった。避難解除後も頼りの息子は帰村しない。遊休農地が増えるわけがそこにある。

 「若い人たちがいない。高齢の父親がどこまで(独りで営農)できっか、ということ。そこで、気力がなくなってきた、って(いう事情だ)」。村認定農業者連絡協議会の会長を務め、事情をよく知る長谷川さんは、そう説明した。

酪農仲間の自殺、思いを背負い

 原発事故は長谷川さんの生業を一気に壊した。豊田さんと野田雅也さんが監督を務めた「遺言-原発さえなければ」に詳しい。

 牛乳の出荷停止後、搾った乳を畑の脇に掘った穴に捨てるむなしい日々。牛の体調維持に搾乳をやめるわけにはいかなかった。そして牛たちを殺処分へ送り出す。涙の別れとなった。

 事故から3カ月後、相馬市の酪農仲間が自殺した。長谷川さんたちは現場の小屋に駆けつけた。壁にチョークで「原発さえなければ」「原発に負けないでがんばってください」と書かれた遺言にくぎ付けになった。

 長谷川さんは、ふるさとや生業を失った村人、自死した仲間の思いを背負って、全国各地で講演を重ねて被災の実態を伝え、都内も含め原発再稼働反対デモに参加してきた。

 14年秋には、東京電力に損害賠償を求め、原子力損害賠償紛争解決センターに裁判外紛争解決手続き(ADR)を申し立てた。村の半数の3千人が結集した。「先頭に立ってなんで怒らないんだと説得して歩いた。そうすると、みんなそれぞれに怒ってんだよ」

 個別慰謝料で一定の成果があったが、汚染情報が伝わらず避難が遅れた村の特殊事情から求めた初期被ばく慰謝料など一律補償要求は東電がかたくなに拒否。センターの仲介打ち切り通告を受け、昨夏やむなく解団した。

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