希望を託す「不要不急」 内門博

西日本新聞 オピニオン面 内門 博

 大災害は未明に起きた。某新聞社では編集局総出。文化部員も出社した。丸1日働き、夕朝刊の出稿を終えた。記者たちは食事を忘れていた。文化部は編集局の主な部とは違う階にある。フロアを移動して他部署をのぞくと会社側が夜食を用意していたが、ほぼ無くなっていた。コンビニなども閉まっていて文化部員は食事難民になったという。他社の話でうろ覚えだが、概略こんな話だった。

 「要は忘れられていたんです」。ある会合でその話を聞かされた他社の文化・学芸系デスクたちは、「うちでもありそう」と苦笑いした。

 これは小さな業界話だが、日本では文化芸術分野は軽視されがちだ。新型コロナウイルス感染拡大で「不要不急の集まり」を避けるよう政府が呼び掛け始めると、真っ先に「不要不急」とみなされたのも、スポーツとともに文化芸術関連行事だった。東日本大震災の時も芸術関係者の多くは、思い悩みつつも活動を自粛した。今回も苦渋の決断。民間の興行主催者で、中止時の損害補償の見通しもなく決断した団体もあると聞く。

 閉館や中止は必要な措置だろう。ただ「不要不急」という表現が引っ掛かる。従事する仕事を「不要不急」と言われて静かに傷つく人々のことを忘れていないか。大学入試への英語民間試験の導入を巡る萩生田光一文部科学相の「身の丈」発言に通底する「上から目線」を感じる。

 どんな用件が不要不急かは原則的には個人が決める。常識人ならば、体調が悪ければ、観劇、鑑賞はもちろん、外出を控える。むしろ、受験生や有給休暇は取れないフリーランスなど、「必要かつ火急」なために体調不良を押して外出するような人々への対応策こそ、政府がまず打ち出すべき施策だったろう。

 そもそも芸術文化の営為は不要不急か。人は孤独で明日にも死ぬと言われたら、物的欲求よりも美しい絵や音楽などに精神的な安らぎを求めるのではないか。アルベール・カミュは小説「ペスト」冒頭部にこう書く。<生きるために残された時間を、みずから選んでカルタに、カフェに、またおしゃべりに空費する光景ほど、こんにち、自然なものはない>(宮崎嶺雄訳)

 1940年代のフランス領アルジェリアの都市を舞台に、感染症と闘う市民の姿を描く小説では、その自然な光景が奪われていく。

 文化関連行事は不要不急としてではなく、こうした自然な光景=日常が長期的に奪われないように希望を託して中止された。私はそう思いたい。 (くらし文化部次長)

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