レーニンの喫煙管理

西日本新聞 オピニオン面 上別府 保慶

 革命家のレーニンはたばこの煙が嫌いだった。たとえ生死を共にする同志であろうと、煙は我慢ならなかった。以下は103年前の嫌煙権行使の話である。

 第1次大戦中の1917年、スイスに亡命していたレーニンは「ロシアに革命起こる」の知らせに接するや帰国を思い立った。するとドイツ外務省が接触してきて、ドイツを経由する汽車便の手配を申し出た。交戦中のロシアを革命の激化によって停戦に追い込むための謀略だった。

 この申し出にレーニンは条件を付けた。汽車の中はドイツの主権が及ばない治外法権にして、出入りを遮断すること。そして運賃はきっちり支払い、借りはつくらぬと念を押した。帰国後にドイツのスパイ扱いされるのを避けるためだった。戦前の作家シュテファン・ツヴァイクが「人類の星の時間」(みすず書房)にその様子を書いている。

 4月9日、後に「封印列車」の名で知られる汽車はチューリヒ駅を出発した。レーニン夫妻と同志のジノヴィエフやラデックたち、およびその家族の計32人が乗り込んだ。レーニンは女性と子供を二等席に、男性は三等席に分けて座らせ、同行するドイツ軍将校2人の部屋の前には、白墨で線を引いて接触を拒んだ。

 何事も冷徹に処理するのがレーニン流である。客室は全面禁煙にして喫煙できるのはトイレの中だけに限ったが、やがてトイレは喫煙者と用を足したい者とで混雑し始めた。するとレーニンはトイレットペーパーで切符を作り、後のソ連の配給経済よろしく、トイレを使える時間と回数を管理した。行列は解消された。

 同志たちはレーニンが分煙で見せた手腕に感心して「これなら新政権を樹立できる」と確信したそうだ。ディスカバリーチャンネル「戦火の鉄道大全」より。

 帰国したレーニン率いるボリシェヴィキ(後のソ連共産党)は20世紀の様相を一変させた。レーニンは政権を握った後、都市の食料不足を補うために農民から穀物を強制的に徴収。飢餓を招いた。モスクワから480キロ南東のタンボフでは反乱が起きたが鎮圧され、1万4千の農民が死んだ。近年、毒ガス弾まで使われたことが分かっている。

 この話は、日本もたばこの受動喫煙を規制する動きが進み、鉄道もこの4月から禁煙が徹底されることから思い出した。私の職場も喫煙ルームが廃止され、原稿を書くのにニコチンの助けを借りてきた愚かな身としては随分と肩身が狭い。

 トイレットペーパーの券を握ってトイレに並んだレーニンの同志たちは、より冷徹な後継者のスターリンによって、葬り去られた。そんな余話に、口寂しさを重ねているのである。

 (特別編集委員・上別府保慶)

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