出征で裂かれた妻恋…二十歳の青年が残した日記「二度と会ふまい」

西日本新聞 社会面 久 知邦

 大分県南部にある豊後大野市緒方町。里山の風景が広がるこの町に、日記を付けた三代(みしろ)徳重さんの生家があった。今は徳重さんの妹、シズカさん(95)が1人で暮らしている。日記の存在を西日本新聞「あなたの特命取材班」に寄せてくれたのは、シズカさんの娘、林陽子さん(68)=大阪府吹田市=だった。10年ほど前、たんすを整理していて見つかった日記。色あせ、染みが浮かんだ表紙には「2601」の数字が。戦前使われていた紀元で西暦1941年を示す。

 「無口で真面目一本な兄だった」とシズカさん。徳重さんは20歳を迎えた41年に徴兵検査を受けた。よく酒を酌み交わした「敏ちゃん」や「生吉君」ら友人の中で、ただ一人の「甲種合格」。誇らしげに振る舞ってはいたが、その心持ちを言葉にすることはなかった。入隊へ高ぶる気持ちがあったのか、あるいは前途を案じていたのか。

 日記は41年12月15日で途絶えている。「入隊を控えていろいろ考えたら、何も書けんくなったんじゃろう」。シズカさんは兄の胸中を推し量る。42年1月初旬、女学校を抜け出し、駅のホームで兄を見送った。それが最後となった。

 大分県庁に残る軍歴によると、徳重さんは同年1月10日、宮崎県都城市に拠点を置く陸軍の連隊に入隊。4月に中国に上陸し各地で警備についた。45年2月、マラリアと赤痢により中国・武漢の病院で戦病死した。23歳だった。

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 途絶えた日記の後ろの方、まっさらなページにある歌詞が書き込まれていた。上原敏が歌ったヒット曲「妻恋道中」(37年)。博徒と妻との別れの曲だ。

 ≪好いた女房に 三下(くだ)り半を 差して長ドス 良いの旅 うらむまいぞえ 俺の事は 又(また)の浮世で会ふまでは≫

 ≪惚(ほ)れて居ながら惚れない素振(そぶ)り それがやくざの恋とやら 二度と会ふまい 海道がらす 阿呆(あほう)阿呆で 旅ぐらし≫

 この記述は一部、実際の歌詞と異なる。「差して長ドス」は「投げて長ドス」、「良いの旅」は「永の旅」、「二度と会うまい」は「二度と添うまい」が正しい。銃剣を持って死地に赴く自身の境遇と、妻への思いをこの歌に重ねたのかもしれない。

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 生家には、42年5月、妻由美さんが戦地の夫に宛てた手紙も残されていた。何かの行き違いで戻ってきたのか「受取人ナシニ付キ廻送相成リ」という紙が貼られている。体調が優れず湯治に行き、そこで徳重さんが帰ってくる夢を見たと書かれている。

 ≪もしやあなたから何か知らせてきたのであろうと不安な思いで帰った≫≪この頃は相変わらず元気です。家の事はご心配なく。一生懸命、ご奉公致してくださいませ≫

 病身の妻はそれから2カ月後に亡くなった。

 この年、徳重さんは旧ソ連と旧満州(中国東北部)の国境に駐留していた。同じ部隊にいた男性の手記には<冬は零下42度、川も湖も凍った白一色の広野で猛訓練に明け暮れた>(緒方町の戦争体験記録集)とある。過酷な環境下で悲報に触れ、何を思っただろう。

 「兄から届いた手紙には、由美を帰ったら楽させてやりたいと思っちょったのに、と書いてありました」。シズカさんが手にした写真には、防寒帽をかぶった徳重さんと着物姿の妻が並んでいた。戦後、両親が2人をふびんに思い、合成したものだった。

 「戦争の犠牲になった若者の無念さや、残された家族の悲しみが時間とともに消え去っていきそうで不安です」。取材班に情報を寄せた林さんはこう話した。日記にたびたび出てくる徳重さんの親友「敏ちゃん」と「生吉君」もまた、戦争で命を落とした。 (久知邦)

◆三代徳重さんが残した日記は、こちらで読めます。 

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 今年は戦後75年。当時を知る人が少なくなる中で、戦争の現実と平和の尊さを後世に伝えようと模索が続いています。高齢を押して語り継ぐ戦争体験者、地域に残る戦の記憶をたどり重い事実を学ぶ現在の世代。私たちも共に、先人の歩みと、今の時代に向き合います。 (随時掲載します)

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【ワードBOX】上原敏

 秋田県出身の歌手、本名松本力治。1937年に「妻恋道中」が爆発的に売れ、スター歌手に。同年に日中戦争が始まり、兵士が戦地から家族に宛てた手紙の形式を取った「上海だより」もヒットした。43年、34歳で召集され、翌年ニューギニアで亡くなった。召集令状は手違いだったとも言われる。長男明生さん(79)=宇都宮市=は「父は戦地慰問によく行っていた。国のために役立ちたいと考えていたはずだ」と話す。

 ※上原敏の「妻恋道中」を検索エンジン動画サイトで検索すると、曲の紹介や動画が投稿されていた。

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