3人の親と別れ上京…寂しくもわくわくした18歳の春

西日本新聞

放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(16)

 私が佐世保南高に通っていた1960年代後半から70年代初め、全国で学園紛争の嵐が巻き起こりました。70年安保です。大学はバリケードで封鎖され、授業ができないところが多かったです。高度経済成長後期だった当時は、経済発展する一方で、政治的な関心を持つ若者たちの熱を感じた時期でした。

 68年1月の「エンプラ闘争」で揺れた故郷は、静けさを取り戻していました。充実した高校生活は終わりに近づき、大学進学を勧める家族に従い、私は3校を受験。京都の同志社大は不合格でしたが、東京の青山学院大ともう一つの私立大に合格しました。

 東京にいる父の兄弟の家に下宿すれば、家賃が浮く。学費は何とかするという父に甘え、青学大経済学部への進学を決めました。雑誌「平凡パンチ」に掲載されていた、あの青山通りを闊歩(かっぽ)できるのです。

 息子のために家族は、ありがたいことに生活費を切り詰めて大学に行かせてくれました。父にとって、自身が生まれ育った東京で私が学生生活を謳歌(おうか)することが、うれしかったのかもしれません。

 父は「大学を卒業したら市役所や地元の親和銀行とか佐世保玉屋に就職してほしい。食堂を継いでもよかし」と考えていたようです。靖芳がUターンすれば、一家は安心だろうと。

 18歳の春、いよいよ旅立ちの時。親離れです。国鉄佐世保駅には3人が見送りに来ていました。生を受け育まれた佐世保での日々。感謝の気持ちでいっぱいでしたが、照れくさくて口にできませんでした。

 6畳一間の大黒町市営第三住宅で生まれた私。しつけに厳しかったけれど、一度も手を上げなかった優しい父。何度もたたかれたけど、私に対して差別的扱いをした近所に怒鳴り込んで正義を貫き、不条理を憎んだ母。足の悪い母の代わりに家事を担い、海老原家を陰で支えてくれた産みの母である叔母。戦後、大陸から佐世保に引き揚げた3人は競輪場の食堂を営みながら、私を大人への道に導いてくれました。

 東京行きの寝台特急「さくら」は佐世保駅を静かに出発しました。車窓から手を振る私。振り返す3人の姿は遠くなり、やがて視界から消えました。

 寝台車の三段ベッドの一番上。天井を見つめ、家族と別れる寂しさとともに、これから始まる東京での新しい生活にわくわくしながら、眠りに就きました。

(聞き手は西日本新聞・山上武雄)

………………

 海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。

※記事・写真は2019年07月04日時点のものです

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