福岡沖地震15年 先手の災害対策を今こそ

西日本新聞 オピニオン面

 警固(けご)断層を震源にマグニチュード(M)7を記録した福岡沖地震から、あすで15年という節目を迎える。

 その後の東日本大震災(2011年、M9)や熊本地震(16年、M7・3)の規模、被害がさらに大きかったためか、福岡沖地震の印象はともすればかすみがちだ。

 05年3月20日午前、3連休の中日に起きた大きな揺れを思い起こしたい。福岡都市圏を中心に九州・山口の全域が震度6弱~2に見舞われたほか、韓国でも広範囲にわたり最大震度3を観測するほどだった。

教訓語り継ぐ工夫も

 博多湾に面する「かもめ広場」(福岡市中央区)。今では平日でも、陽光に包まれ楽器を奏でる人などの姿が見られる。

 ここは震源に近い玄界島(同市西区)島民の半数に当たる約100世帯が仮設住宅で避難生活を強いられた場所だ。

 当時の玄界島は急斜面に張り付くように並んだ住宅が傾き、人影が消えた。全員の島への帰還まで3年を要した。島には新しい住宅が建ち、公園は整備され、復興を遂げた。

 そうした外形から、あの過酷な震災の傷痕を感じ取ることはできない。緑豊かに整備されたかもめ広場もまた同じである。15年という時の流れを思わせるには十分だろう。

 一方で風化の危機も感じずにはいられない。福岡沖地震を伝えるモニュメント類は少ない。被災後の玄界島を訪問された天皇、皇后両陛下の歌を刻んだ現地の石碑などに限られる。

 地震で400枚以上の窓ガラスが砕け散った福岡ビル(同市・天神)は、象徴的な震災遺構とも考えられるが、再開発事業に合わせた解体作業が続く。

 あの日、高速道や地下鉄も止まり、道路は陥没し、埋め立て地は液状化した。死者1人、負傷者は約1200人に上った。

 この15年の節目に、市に検討してほしいことがある。地元の小中高校での語り伝えや、被災を伝承する関連の地への記念碑づくりなどである。教訓の伝承は「地域住民の責務」と災害対策基本法でうたっている。これも私たちは忘れずにいたい。

被災者支援の充実を

 福岡沖地震が起きた平成は「大災害の時代」とも呼ばれる。阪神大震災で高速道が根元から倒れ、熊本地震では新幹線が脱線した。東日本大震災では史上最悪の原発事故が起きた。

 いずれも日本社会の豊かさを象徴し、支える土台のような存在だった。その整備が進んだ昭和後半からの時期は偶然にして大災害の発生が比較的少なかった。にもかかわらず、私たちはそれをあすも続く「日常」と思い込んではいなかったか。

 平成の災害が起こるたびに、政府は慌てるように新法策定や法改正を繰り返してきた。現在主な災害関連法だけで100本を超えているが、後追い的な「接ぎ木細工」との批判もある。今こそ、総合的な先手の災害対策が求められる。

 とりわけ、被災者支援制度の充実は急務である。政府は阪神大震災を機に、それまで否定してきた個人補償をようやく始めた。全半壊した住家再建費などの補助である。

 課題はそれだけにとどまらない。仕事や家族を失った生活困窮者をどう守るのか。被災直後の避難所暮らしから生活再建まで、被災者のニーズは日に日に変化し多様化する。一律ではないきめ細かな支援策が必要だ。

 被災者の事務的負担をいかに減らすかも重要だ。罹災(りさい)証明の取得に始まる申請主義や、法律ごとの縦割り行政を総合的に見直す必要がある。

 「3・20」は、九州の北部海域では大地震は起きないという安全神話があえなく崩壊した日でもある。日本中の活断層はいつ動いてもおかしくない。その教訓を改めてかみしめたい。

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