平野啓一郎 「本心」 連載第194回 第八章 新しい友達

西日本新聞 文化面

 イフィーの家で得られた最も大きなもの。--それは、快適な場所で、ゆっくり考える時間だった。

 人々が生活をしているその街を、遙(はる)かに見下ろすイフィーの家のリヴィングからの眺めは、彼自身が僕に語った通り、思いの外、単調で、贅沢(ぜいたく)にも、僕はすぐに飽きてしまった。

 お陰(かげ)で、僕は久しぶりに、自分自身と向き合うことが出来、実はこの時から、母が亡くなってからのことを、少しずつ文章で振り返るようになった。パソコンを持ち込み、空いている時間を使うことを、イフィーは許可してくれた。

 そして、僕は到頭(とうとう)、自分の中にある<母>への関心の薄れを、認めざるを得なくなったのだった。

 

 僕は、あの機械を“卒業”しつつあるんだろうか? <母>の人格の構成比率の中では、僕向けのものが主人格になっている。しかし、僕にとっては、今はもう、三好やイフィーとの人格の方が、大きくなってしまっているのではあるまいか?

 そのことを考えているうちに、言い知れぬ寂しさが込み上げてきて、僕はしばらく、夕方から雨が降るという灰色がかった空を眺めていた。

 今この世界には、母はいない。僕はその空の景色から、そのことを感じ取れる気もしたし、感じ取れない気もした。それは一体、僕のどんな能力を試されているのだろうか。いたはずの人がいなくなった世界の変容を、あの雲の彼方(かなた)に滲(にじ)むようにして輝いている太陽の光から、察知することが出来るのだろうか?

 しかし、実のところ、僕はもう、母がまだ生きているのかもしれないと、錯覚する力さえ、失ってしまっていた。

 空は何も変わらない。だから、母の存在の有無は確かめようがないとは、思えなくなっていた。

 <母>だけでなく、母自身が、僕の中で遠くなっていきつつある。

 それは、自然なことなのだろうか? そして僕は、そのことを喜ぶべきなのだろうか?……

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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