「せめて最期の地を」硫黄島、遺骨眠る地下壕…父思う息子

西日本新聞 一面 森井 徹

 ごう音が響く自衛隊輸送機に揺られること約2時間。耳栓を取り機外に出ると、生ぬるい風が硫化水素のかすかなにおいを運んできた。

 滑走路を離れると建物はほとんどなく、島を一周する道路沿いのあちこちに、道しるべとなる石碑が立つ。遺族を乗せたマイクロバスが「歩一四五」と刻まれた石碑で停車した。

 戦時中、鹿児島県出身者を中心とする陸軍歩兵第145連隊の一部が周辺を拠点にしていたといい、地下壕(ごう)への入り口らしき岩が見える。

 「こんなところにおったんだなあ、父は」

 同県いちき串木野市の三重東二さん(77)は、目の前の荒野と絶海に深々と一礼すると、しゃがみ込んで手を合わせ続けた。

 戦後、母と2人で生きてきた。32歳で戦死した父喜彦さんの記憶はなく、写真も残っていない。幼いころはおじたちを眺めて「こういう顔だったのかな」と面影を想像した。

 せめて最期の地を訪ねたい-。仕事や子育てに追われ、その思いを果たすのに数十年かかった。東京都心から1250キロという距離のせいだけではない。1968年に米国から返還された島は自衛隊が管理し、民間人は元島民でさえ自由に渡航できない。

 この日は、遺族らでつくる硫黄島協会が主催する慰霊行事のため、約60人が航空自衛隊入間基地(埼玉県狭山市)から島に渡った。

 「父の魂は故郷にあると思うが、この島を、目に胸に焼き付けたい」と三重さん。墓に納めてあるのは、家に届いた島の砂とくぎだけだという。

   ◇    ◇

 硫黄島に残る地下壕(ごう)の中は、むせ返るような暑さだった。

 入り口から数十メートル進むと熱気に襲われ、一瞬で眼鏡が曇った。米軍の上陸に備えて整備された総延長18キロの壕内は、地熱で気温が40度を軽く超えるところもあるという。古びたやかんや空き瓶が転がり、特大のムカデがはっていた。

 壕のある岩場の表面にはおびただしい数の弾痕が残る。壕の中も外も地獄だったことが、肌感覚で伝わってくる。

 「この島のどこで戦い、どこで亡くなったのか。何も分からないんです」。福岡県大牟田市の中村博幸さん(69)が語る。

 おじの小松市松さんは島で戦死。長男は2歳で早世し、妻も戦後に亡くなった。「親族の歴史をなかったことにはできない。知ることが供養になる」。教員を引退後におじの足跡を調べ始め、昨夏は遺骨収集にも参加したという。

 遺骨収集は、厚生労働省の委託を受けた団体が担っている。高齢化のため作業に加わる遺族は減り、近年は多くをボランティアに頼る。作業は約2週間。慰霊巡拝に参加した40~50代の孫世代は「やりたいが、仕事があるうちは時間が取れない」と口々に話す。

 政府は2016~24年を太平洋戦争戦没者の遺骨収集の集中期間とするが、地下壕が連なる硫黄島は最も難航している地域の一つだ。

 「悲しいことに、遺骨収集作業で使っているのはこれなんです」。硫黄島協会福岡県支部の山口康弘支部長(76)が差し出したのは、細かい升目が重ねられた島の全景図。米軍が島の攻撃に利用した座標図だ。これを手掛かりに壕の奥深くまで掘り起こしたが、半数は見つかっていない。

 米軍が上陸した海岸を見下ろす摺鉢山を巡り、バスは日米合同の慰霊碑に立ち寄った。米国は死者約7千人の遺骨収容を既に終えている。「日本ももう少し早く力を入れていたら…」と、山口さんがつぶやく。

 遺族が希望をつなぐのは、政府が4月から硫黄島で収集した遺骨のDNA鑑定の条件を緩和することだ。身元の特定がこれまでより進む可能性はある。

 車窓から島の風景をじっと眺めていた鹿児島県出身の女性(74)は「父はまだここにいる。早く家に帰してあげたい」と静かに語った。その胸には、渡島を夢見たまま果たせなかった母の写真が抱えられていた。

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 太平洋戦争末期の激戦地、硫黄島(東京都小笠原村)は26日、組織的な戦闘の終結から75年を迎える。島で戦死した日本兵は約2万1900人。そのほぼ半数の遺骨はまだこの地に眠る。現地で予定された日米合同の慰霊式典は新型コロナウイルスの影響で中止が決まったが、遺族の思いは変わらない。昨年11月に行われた遺族の慰霊巡拝に同行した。 (森井徹)

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