「三島由紀夫VS東大全共闘」に観る昭和の熱気 だが引き返しはしない

西日本新聞

 映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』を観(み)た。「禁断のスクープ映像」と謳(うた)われているが、これはTBSが保管していたテレビ映像をもとに、当時の全共闘の面々や小説家の瀬戸内寂聴と平野啓一郎、そしてかつての楯の会の人々へのインタビューをおりまぜて編集したものだ。

 半世紀前の映像だ。当然ざらついた不鮮明さも目立つ。しかしそれが逆に三島由紀夫のオーラとともに、昭和という時代の輝きと熱気をも伝えている。

 討論会は対決というよりも、学生たちが兄貴のようなスーパースターを相手にジャレつきむしゃぶりついてる感じだ。

 「認識」「関係性」「現象形態」「捨象」……。よくもまあこんな言葉をぬけぬけと並べたものだ。しかし私は、笑えなかった。なぜなら、私もこの頃、自分がいかに人より抜きんでて優れているかを見せるのに汲汲(きゅうきゅう)としていたからだ。

 三島由紀夫は、若い人を立てる礼儀正しい人だった。そして自分を見せることにかけては、寸分の狂いもなく立ち回るヨカニセさんだった。当時の若者やメディアなど手玉にとるのは、彼にとってはわけないことだったろう。今もそう思う。

 ところで全共闘というのは、全学共闘会議の略称だ。往時の日本共産党系以外の三派全学連と呼ばれるセクトや私のような無党派学生(ノンポリと呼ばれた)による運動体だった。確立された既存の体制やさまざまな権威に対して、それぞれの異議申し立てをする集団だ。

 アメリカのベトナム戦争反対や公民権運動、一九六八年のパリの五月革命、ソビエト連邦のぐらつき、世界の至る所でマグマが噴出していた。パンデミックのような世界同時革命という幻想にとりつかれた人間も少なくなかった。

 私もゲバ棒や火炎瓶を手にした。しかし私は、革命を口走る人間が嫌いだった。私にはマルクス全集と太宰治の一行が等価だった。ある時、学生運動家から吊(つ)るしあげを喰(く)らった。

 「岡田、テメエは、右か左か どっちなんだよ」。私はしれっとして答えたものだ。「きっと、上だと思う。両極相通ずってこともあるんだよ」

 また私はことさら肉体美を誇ったり、男臭い集団で直接行動に走る三島由紀夫は苦手だった。きっとその頃、自分の肉体と腕力と殺意には、自信があったからだろう。

 だが一九六九年一月の安田講堂の一件来、私はすっかり消耗していた。五月三島由紀夫の集会の日も、会場は覗(のぞ)いたが、三島由紀夫も壇上の学生たちも、思った通りのことしか言わなかった。私は後に『テロリストのパラソル』を書いた藤原伊織たちと早々に引きあげ、マージャンに及んだ。

 映画のあと、こんなことを思い出しながら、私は五十年前の私の日記帳をぱらぱらとめくった。三島由紀夫が自決した夜、私は百五十行ほどの弔詩を書いている。その余白には、次のようなメモもあった。

 「さようなら 東京/さようなら 母よ/さようなら 私が愛した人たちよ/さようなら 三島よ=わたしはわたしともわかれてゆくのだ=手をふりて 皆とわかれた峠道/これからうたう わが風葬歌」

 映画を観て、私は学校に忘れ物をしたような気分にもなった。しかし、今それをとりに引き返そうとは思わない。(岡田哲也)

 おかだ・てつや 詩人。1947年、鹿児島県出水市生まれ。東京大文学部中退。詩集に「白南風」「にっぽん子守唄」「わが山川草木」「茜ときどき自転車」「花もやい」など。本紙で「西日本詩時評」を担当中。

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