父の優しさは偽りだったのか? 疑問解けた一枚の写真

西日本新聞

放送作家・海老原靖芳さん聞き書き連載(104)

 父は私にはとても優しい人でした。母の妹である叔母が産みの母という、普通の家庭ではあり得ないような出生の秘密があった私。20代の頃、育ての母に事実を知らされました。しかし、そのことを父は生涯、隠したまま亡くなりました。

 父の優しさは自責の念からくる偽りの優しさではないか。父にとって私の存在は?

 ずっと引きずったまま、この疑問を解くことができませんでしたが、還暦を迎えた今から6年前。拙著「還暦すぎて、陽はまた昇る」(牧野出版)を執筆するため、幼少時代のアルバムをめくりました。6畳一間の3人暮らし。貧しい生活ながらも、節目の行事に父は奮発してくれました。小学校入学の時は革の靴を履いて写真館での記念撮影。3歳の節句の写真にも、分不相応の段飾りが写っています。アルバムからはがして、何げなく写真の裏を見ました。

 「昭和三十一年五月五日 小供の日 記念撮影 ●● 海老原靖芳 満三才」 懐かしい父の字です。背筋を伸ばし、すずりを使って墨で書いていた父の姿が思い出されました。ただ、●●の字が読み取れませんでした。草書体です。辞書を調べて分かりました。

 「愛児」でした。

 そう、愛(め)でるわが子です。ショックでしたね。もちろんうれしい意味の。あのような出生だけに、もしかしたらどこかへ養子とか、あるいは捨てられていても不思議ではないでしょう。

 戦後、両親と叔母は3人一緒に朝鮮半島から命からがら引き揚げ、佐世保で生活を始めました。現地の鉄道局でエリートだったと聞いています。夢破れ、失意のままでの暮らし。私が生まれたとき父は55歳。佐世保競輪場の食堂での商いも収入はわずか。それでも文字通り老骨にむち打って働き、育ててくれました。

 思春期の頃、貧しさを嫌悪し、複雑な家庭であることを直感した私は出て行きたい気持ちでいっぱいでした。早く離れたい。この家族から、この町から。そして高校卒業後、東京へ。当時の気持ちを否定するつもりも、弁解するつもりもありません。若かったですからね。

 節句の写真に、父はこんな言葉も添えていました。

 「心身共に健やかに伸びゆく姿はほんとに頼もしい」

 見ているうちに、父の達筆が少しずつ、にじんできました-。

 次回、最終回です。 

(聞き手は西日本新聞・山上武雄)

………………

 海老原靖芳(えびはら・やすよし) 1953年1月生まれ。「ドリフ大爆笑」や「風雲たけし城」「コメディーお江戸でござる」など人気お笑いテレビ番組のコント台本を書いてきた放送作家。現在は故郷の長崎県佐世保市に戻り、子どもたちに落語を教える。

※記事・写真は2019年10月19日時点のものです

長崎県の天気予報

PR

長崎 アクセスランキング

PR

注目のテーマ