平野啓一郎 「本心」 連載第202回 第八章 新しい友達

西日本新聞 文化面

 <あらすじ> 石川朔也は差別的な男と対峙した出来事が動画投稿サイトで流れたことがきっかけで、アバター・デザイナーのイフィーと知り合う。彼の専属リアル・アバターとして働くうち、朔也は亡き母への関心が薄れてゆくのを感じる。そして母が影響を受けた作家・藤原亮治へ手紙を書こうと思う。

  第八章 新しい友達

 僕は、この本を感動しながら読んでいた母の親指が、どんな風に小さな三角形の上を押さえ、何度も往復したかを想像して、その折り目にそっと指で触れてみた。

 母が読書家で、取り分け藤原亮治のファンだったことは、勿論(もちろん)知っていたが、それにしても、僕は母の口から、「ソクラテス」などという人名を、終(つい)ぞ聞いたことがなかった。

 僕に話しても、仕方がないと思っていたのか。……

 僕は決して多読ではなかったが、それでも、折々、母が面白いという本を読んでいた。しかし、なぜか母は、藤原の本を僕に薦めたことは一度もなかった。そして、僕も手に取ろうとはしなかった。その母子の間の無言を、僕は今では、やはり奇異に感じる。

 奥付の刊行日からすると、母がまだ、三十代の頃に買った本のようだった。

 どうして、たったこれだけの本を、僕は母の生前に読まなかったのだろうか? 読めば、母ともっと色々なことを話せたはずなのに。

 <母>は今も、施設で元大学教授の吉川と、文学談議に花を咲かせている。僕にはそれが、まったく母らしくないように感じられていたが、この本の延長上に存在していると思えば、必ずしも違和感はなかった。

 

 実際に、いざ藤原への手紙に取りかかってみると、最初の一行目から躓(つまず)いてしまった。

 彼のSNSのアカウント宛(あて)にメールを送るつもりだったが、本の刊行情報くらいしか更新されておらず、管理者が別にいるようにも見えた。あまり思いつめた内容だと、弾(はじ)かれてしまうかもしれないが、単なるファンレターのようでも、返事は期待できないだろう。

 母から藤原のことを聞いていた三好に、改めてどの程度の関係だったと思うかと尋ねると、初めてこの話を居酒屋で聞いた時とは違って、僕という人間を既によく知っているという風に、躊躇(ためら)いなく言った。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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