中洲で最後のキャバレー閉店 「日本一の桃太郎」41年の歴史に幕

 福岡市の歓楽街・中洲にある九州最大のキャバレー「日本一の桃太郎」(中洲・桃太郎)が3月31日、41年の歴史に幕を下ろした。「キャバレー王」と呼ばれた運営会社の創業者が死去し、新業態の台頭もあり閉店を決断したという。フロア面積1千平方メートルの大型キャバレーは全国的にも珍しかった。新型コロナウイルスの感染が広がり社会に閉塞(へいそく)感が漂う中、昭和の薫りを残す中洲のシンボルがまた一つ消えた。

 中洲の目抜き通りに面する飲食ビル。ステージを中心に最大300人が収容できるボックス席77席が扇形に並ぶ。大阪から毎月1回通う男性会社員(54)は「関西にも大型キャバレーはほぼない。来るのが楽しみだった」と閉店を惜しむ。

 運営会社は森川観光グループ(広島県三原市)。複数の本や関係者の証言によると、兄の借金返済のため、国鉄(現JR)職員から水商売の世界に入った森川孝人氏が1963年にキャバレー経営を始めた。西日本地域でキャバレーやサロンを展開、運営店は最盛期に70店を超えた。年間160億円以上の売上高があり、森川氏は「西日本のキャバレー王」と呼ばれたという。

 各地の店舗名には桃太郎の名前を付けた。初出店したキャバレーがおとぎ話・桃太郎にゆかりのある岡山県だったから。森川氏が「誰もが親しみやすく、忘れられない」と考えたという。

 同社は山陽地域で成功を収めた後、鹿児島市や長崎市、佐賀市に出店。78年に「グループ一のマンモス店」として九州一の歓楽街・中洲に開業した。内装など設備費だけで2億円を投じただけでなく、地場で先行した「上海」「チャイナタウン」「リド」など競合店に対し、低価格路線で勝負。客を楽しませる工夫を凝らし、多様な企画を考案した。中でもステージ上で5匹のネズミをレースで競わせ1、2位を当てる余興は人気を博した。

 また、「女性ホステスに長く働いてもらいたい」と、客がいないと短時間で帰宅させる時給制ではなく日給制を採用、強制同伴など厳しいノルマ制は取らなかった。20年以上勤務する50代ホステスは「アルコールを飲めない人は水で良かった。働きやすい環境だった。親子2代で働いた人も複数いる」。

 しかし、キャバレーは度重なる不況や娯楽の多様化、ディスコやキャバクラなど新業態の台頭で、東京、関西でも次々と姿を消した。信用調査会社によると、中洲で最後まで残った桃太郎も96年9月期に12億円近くの売上高があったが、近年は遠く及ばなかった。ただ黒字は出ていたという。

 決め手になったのは今年2月下旬に、森川氏が92歳で亡くなったこと。グループ担当者は閉店の理由について「創業者の死去や現在の新型コロナウイルスなどさまざまな事情を考慮した結果、水商売から撤退することにした」。中洲の店と同時に広島市、広島県福山市の店も閉じる。

 中洲・桃太郎には、閉店時も外国籍も含め60人程度の女性従業員がいた。常連客には90歳を超えた人もいる。「全国から来店する人がおり、閉店したくなかった」(古参の男性従業員)、「桃太郎でまだ働きたい」(20代のホステス)という声も多かった。

 森川氏の半生と森川観光グループの隆盛を描いた著作がある元フクニチ新聞記者の内川秀治さん(82)=福岡県大牟田市=は「『大将』の器のある森川氏の下にアイデアとやる気のある人が集まった。だから中洲・桃太郎は面白い店づくりができ、どこよりも長く続いた」と評価する一方で、「そういう時代なのかもしれないが、閉店は残念だ」と語った。(井崎圭)

キャバレー 戦後の“華” 歌手や漫談家 芸磨く

 キャバレーは戦後、米国の進駐軍の慰安施設として始まった歴史があり、その後、日本人向けに営業するようになった。高度経済成長期には接待や社交の場として栄えた。客が座るボックス席のほか、ステージやダンスホールなどがあるのが特徴。客はホステスの接遇を受けながら、ダンスやショーを楽しむ。

 キャバレーのステージには下積み時代の芸人や歌手らが出演することもあった。駆け出しの芸人や歌手にとっては修業の場であり、日々の糧を稼ぐ場でもあった。ビートたけしさんや漫談家の綾小路きみまろさん、歌手の小林幸子さんらも過去、キャバレーのステージに立って話術や芸を磨いたという。

 語源はこうした店を表すフランス語の「cabaret」と言われている。

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