九州から見た沖縄戦 阪口彩子

西日本新聞 オピニオン面 阪口 彩子

 「私は裏切り者なのよ。九州に疎開していたから。同窓生のみんなが苦しんでいた時、私は遠くに逃げていたの」

 琉球新報と西日本新聞の記者交換制度で福岡に着任した1年前、沖縄で聞いた女性の言葉を思い出した。彼女は沖縄県立第二高等女学校の出身。同窓生の多くは、負傷兵の看護に従事する白梅学徒隊として激戦地に駆り出され、犠牲になった。彼女は九州に疎開していたことが、自分の中に「深い負い目としてずっと残っている」と話していた。

 1944~45年、沖縄県民の約7万人が九州に疎開した。戦後も米軍占領下の沖縄に戻れず、生活の基盤ができた九州にとどまった県人は多かった。当時の疎開者や引き揚げ者が中心となって生まれた県人会が今も福岡、大分、熊本、宮崎、鹿児島各県にある。九州と沖縄とのつながりは深い。だが実際に訪れて取材した経験は一度もなかった。大学で勉強し、入社後も取り組む沖縄戦。福岡で勤務する間も、九州から見える沖縄戦を取材しようと決めていた。

 福岡県春日市の沖縄県出身の女性(83)は8歳の時に満州から引き揚げ、当時の春日村に整備された沖縄県人が集まる「欽修寮」に移り住んだ。

 戦後、最も苦労したのは食料だった。「配給は春日村で止まってしまって、こっちまで届かなかった」。なぜ寮まで食べ物が届かなかったのか。尋ねると少し間を空けて「沖縄だからよ」と言った。その後は多くを語らなかった。

 彼女の父で元春日市長の故・亀谷長栄(かめやちょうえい)さんの伝記にこんな記述がある。「引き揚げの時は地獄でした。でもそのことよりも、残念なのは大陸で御国のために頑張った者が、引き揚げ者ということだけで帰国後もつらい生活をしているのはおかしいと思います。まして沖縄人はまるで外国人みたいに扱われています」

 彼女は、沖縄県人が「差別されていた」という直接的な言葉は使わなかった。沖縄で、本土で、沖縄県人にとって、それぞれの沖縄戦があったことを思い知った。

 戦後75年の今、沖縄のイメージを聞かれて真っ先に沖縄戦を思い浮かべる本土の人は少ないだろう。青い海、青い空のリゾート地の沖縄がもはや定着している。ただ、その一帯には、沖縄戦で犠牲になった旧日本軍や沖縄県民の死体が折り重なっていたことも知ってほしい。沖縄戦で犠牲になった日本軍には九州出身者も多かった。

 九州で知った沖縄戦を、いかに伝え続けていくか。赴任期間を終え、沖縄に戻る。自分自身の責務として、考えていきたい。 (社会部)

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