偏屈者、ただいま自粛中

西日本新聞 オピニオン面 永田 健

 私はもともと偏屈者なので、お上(かみ)からああせい、こうせいと言われるのが大嫌いである。何年か前に安倍晋三政権が「1億総活躍社会」を打ち出した時も意味なく反発し「たとえ日本人全員が活躍したとしても、俺だけは活躍せん!」と周囲に宣言したほどだ。

 そんな私だから、今回の新型コロナウイルス感染防止策として政府や自治体が打ち出す各種自粛要請など無視し、不要不急の用事のために昼も夜も街に繰り出している-かといえばまるで逆で、自分でも意外なほど要請に従っている。先週の日曜は「散髪は不要不急に入るのだろうか」と悩んだ末に予約をキャンセルし、家に閉じこもっていた。

 「おまえのへそ曲がりもその程度か」と周囲からからかわれる始末だが、柄にもなく生真面目な対応を続けているのは、今回のウイルスがなかなか厄介な特徴を有しているからだ。

   ◇    ◇

 新型コロナは、感染しても症状がごく軽い場合、本人も気付かないまま周りに感染を広げてしまう、というケースが少なくないようだ。自分が媒介になってお年寄りにでも感染させたら、自己責任では済まない。そう想像すれば私の行動も慎重になる。

 私が殊勝に自粛しているのは「社会の一員として他者への影響について想像力を働かせた結果、納得してやっている」のであり、同調圧力に屈したわけではない、と言いたいのだ。言い訳する必要もないが。

 この問題は要約すれば「社会の安全」と「個人の自由」との相克だといえる。「感染拡大による死者の増加」という予想事態の重大性を考えれば、ある程度個人の活動の自由が制限されるのも仕方がない、という結論は常識にかなう。

 ただしそれは、強権的な命令や社会の同調圧力によるのではなく、それぞれ納得の上で自発的に自由を制限するのが望ましい。結果としては同じに見えるが、強制や圧力では社会に不満やストレスがたまり、いびつな形で噴出するからだ。

 ネットにはすでに、自粛、外出制限などの行動規範から外れた人々への過剰な批判があふれている。休校になった子どもたちが外で遊んでいると「なぜ外に出ている」と怒る大人もいるという。「自分が従っている規範」に従わない他者への不満が、攻撃的な言動として出現している。

   ◇    ◇

 ウイルスへの警戒感が社会を変えた今、私にとって何が一番嫌かといえば、電車の中でマスクをせずにせきをしている人をつい白い目で見てしまう、その自分が嫌なのである。

 マスクをしようにも買えないのかもしれない。せきは持病のぜんそくか何かかもしれない。「何か事情があるのでは」という想像力を働かす前に「こんな時期に、非常識な」と思ってしまう自分の不寛容に気付き、憂鬱(ゆううつ)になる。

 感染の終息は見えず、マスクは一向に店先に並ばない。市民のイライラは募る一方で、それが他者への攻撃に転化する。マスク不足の怒りを店員にぶつける人もいるらしい。

 これからますますとげとげしくなる社会で、自分だけでもその空気に染まらず、他者に攻撃的にならずに暮らしていくことができるだろうか、などと考える。偏屈者の意地の見せどころだ。 (特別論説委員・永田健)

PR

社説・コラム アクセスランキング

PR

注目のテーマ