平野啓一郎 「本心」 連載第207回 第八章 新しい友達

西日本新聞 文化面

 ピアノとドラム、ベースからなるジャズ・バンドが、螺旋階段(らせんかいだん)の前辺りで、控え目な、寛(くつろ)いだ演奏をしている。スポット・ライトに照らされたキッチンでは、シェフとアシスタントが、料理の準備をしていた。ただ、ふしぎなことに、客は他に誰もいなかった。

「時間、間違えました? 他の方は?」

 僕が花を手渡しながら尋ねると、イフィーは礼を言い、顎をちょんと突き出して微笑した。

「今日は、僕たちだけですよ。朔也(さくや)さんと、彩花さんと、僕の三人です。」

「そうなんですか?……」

「あれ、伝わってませんでした?」

「えー、もう、朔也君、全然、ダメじゃん!」

 僕は、呆気(あっけ)に取られながら三好に謝った。イフィーと彼女は、顔を見合わせて笑った。まさか、僕たちだけのために、クリスマス・イヴに、こんな準備をしてくれているとは、思いも寄らなかった。

 イフィーが、お気に入りだという、クリュッグという銘柄のシャンパンを開けてくれた。僕は、二十歳前の彼に飲酒の習慣があることに驚いた。乾杯し、僕は細身のグラスの三分の一ほどを飲んだが、その滑らかな喉越しには、輝かしいものがあった。僕は、スパークリング・ワインとシャンパンとの違いを、この時の会話で初めて理解し、そして恐らく、シャンパンを口にしたのは、生まれて初めてだった。

 三好は、グラスを持って窓辺に立ち、夜景を見下ろしながら、「スゴーい!」と何度も口にして、写真を撮った。

「朔也君、いつもここにいるの?」

「そうです。」

「羨(うらや)ましすぎる。今度、わたしの旅館の仕事と替わって!」

 いつもはしんと静まり返っている部屋だが、今日は音楽のお陰(かげ)で、その大きさを持て余さずに済んだ。

 イフィーは、キッチンに何かの指示を出しに行った。

 室内の光景が、夜空の闇を背に、窓ガラス一面に大きく映し出されていた。僕たちは、いかにも精密に投影されていたが、それぞれに淡い光を灯(とも)しながら透き徹(とお)っていて、どこか既に、振り返られた記憶のような風情だった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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