「ウイルス時代」の上演に向けて 寄稿・松田正隆

西日本新聞

茫然自失の経験から 新しい表現の模索へ

 演劇は映画などの映像メディアとは違い、いま、ここで何かが一回限りで行われる「現前性」という特性に直面している。上演する者とそれを観(み)る者とが同じ空間を共有し、一つの時空間をそこに集う人々が生身の身体によって経験することをその成り立ちの条件としている。いわゆる「ライブ」と言われている感覚である。それは、かけがえのない唯一無二の貴重な感覚を呼びおこすものとして機能しているとも言える。上演に巻き込まれるような一体感は演劇ならではの体験である。しかし、演劇を観劇することは、そのような生き生きとした感動の獲得のみを目的とするものだろうか。

 たとえば、一人の俳優が電車に乗っている人物を演じるというのは以下のようなことである。この人(俳優)はここにいる。「いま・ここ」という現在の場所に。と同時に、この人(電車に乗っている人物)はここにいない。電車に乗っている人物になって電車に乗っている行いをして、こことは違う場所にいるからである。演劇の上演では奇妙なことに、この二つのことが同時に起こっている。それを、いま、ここで見ている観客にもそのことが起こっているはずである。ただ単にいま、ここで起こっていることを生で「見ている」だけではなく、その二つのことが同時に起こっていることが観客の経験になっている。つまり、ライブで見ているこの現実の様相が不確かなものとなり、この現実が二重化するのである。現実の境界線が曖昧になること。ここに演劇の本質がある。

 ウイルスの感染が世界に拡散してゆくのにともない、人々の集う公共の場所は失われ、人々はそれぞれの場所に引きこもり、隔離され、それまでのさまざまな分断に拍車がかかっている。人気のなくなった街路や地下鉄のなかで、それでも人の集まりのすべてがなくなったというわけではなく、ウイルスに怯(おび)えながらもそれぞれの居場所はこの生活の営みとともにかろうじて保たれてもいる。

 私たちがなんらかの行いをするというときには、この場所とその行為する身体のまわりの時空間は切り離すことはできない。いま、ここでの行いは、現在の時間とこの場所から逃れられない。「ここ」と「ここでの行い」は不可分である。現在における運動はそこを構成している空間や環境とうまく折り合いをつけ、その状態における最善の関係をつくりだすことになる。

 しかし、ウイルスはそんな最善の状況にある「いま・ここ」における運動になんらかの違和をつきつけてくる。えたいの知れない異質なものを「ここではないどこか」からこの場所にもたらしている。その外部というのは、「ここ」とは別の場所にあって侵入したり出て行ったりするということだけではない。その外部は既にもうこの内部に浸透していて見分けがつかないのだ。ウイルスの感染という出来事はそのような安易に位置づけられない外部性との直面である。既に内側に入り込み、内から外へと裂開(れっかい)し、既存の価値観は崩壊し、集団は外部化(あるいは内部化)してゆく。私たちがウイルスの蔓延(まんえん)する世界にいるというのは、そのような内と外との判別不可能な状況を経験することでもある。

 私たちは劇場に集い演劇を観劇することが困難な事態のさなかにある。不特定多数の人々の集まりのなかに未知なるウイルスが紛れ込む可能性があるからだ。しかし観客がライブ感覚で上演を見るということを条件とするような見世物(みせもの)(スペクタクル)としての演劇ばかりが演劇ではないだろう。演劇はいま、ここで、ここではないどこかのことを同時に成り立たせることができる。それは、内のことなのか外のことなのかがわかならないままに茫然(ぼうぜん)自失して事態の進展を見まもるしかない演劇の経験もありうることを示唆している。その演劇の経験がどのような表現方法として創造されるのか、これから模索するしかないのだが、このウイルスの時代の作り手はここにはいない来たるべき観客からのサインをなんとか受信するしかないのだ。それは、部屋の窓を開け、まだ見ぬ集いへ向けて上演し、それに拍手を送るかのような態度なのかもしれない。そしてそれこそが、これまでとは別のところで演劇が生まれる徴候(ちょうこう)にほかならない。

まつだ・まさたか 劇作家、演出家、マレビトの会代表、立教大教授。1962年長崎県田平町(現平戸市)生まれ。「海と日傘」で岸田国士戯曲賞。「月の岬」で読売演劇大賞作品賞。「夏の砂の上」で読売文学賞。

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