60年以上愛され続けるラーメン屋 意外な愛称、その由来は…

西日本新聞 もっと九州面 小川 祥平

◆ラーメン のれんのヒストリー 替え玉(5) 光華園(福岡県大牟田市)

 「うまかったし、大将の麺上げもかっこよかったなぁ」。先日、福岡県大牟田市出身のミステリー作家、西村健さん(54)と話していた時、思い出のラーメン店の話題になった。小学生の頃、叔父に連れられて行ったのが出合い。中学に上がると帰宅途中の寄り道コースになったという。

 店の名は「光華園」。ただ、西村さんはこう続けた。「みんな『便所ラーメン』って呼んでましたよ」

 交通量の多い交差点に店はあった。近づくにつれて豚骨の濃厚な香りが漂ってくる。出迎えてくれた原田五男さん(72)は、西村少年がその麺上げに見とれた大将だった。

 原田さんによると、創業は、はっきりとしないが1950年代中頃という。「最初は父の知人家族が営んでいた。体を壊したらしくうちが引き受けた。64年頃かな」。父、重徳さん(故人)が店の権利をバラックの建物ごと買い取り、屋号「光華園」も引き継いだ。とはいえ「光華園と呼ぶ人なんてほとんどいなかったよ」と振り返る。隣に公衆便所があったからだろう。店は既に「便所ラーメン」で通っており、その愛称も受け継ぐことになった。

 原田さんは高校生ながら店を任された。学校に通いながら厨房(ちゅうぼう)に立ち、前の経営者時代から働く従業員にラーメン作りを学んだ。卒業後は若き2代目として店を完全に仕切るようになった。

 今でこそ気さくな印象の原田さんだが、周囲に聞くと、昔は寡黙な職人タイプだったようだ。

 「ラーメンはごまかしがきかんからね。とにかく努力しましたよ」

 数年で土地を買い取ると次なる目標を「建て替え」に定めた。「さすがにバラックのままじゃいかんでしょ」と笑う。一日のほとんどを店の中で過ごした。よそのラーメンを食べたことすらない。「自慢じゃないけど、最初の30年はずっと右肩上がり」と言うほど働いた。

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 目標が実現することになったのは昭和が終わる頃だった。バラックをビルに建て替える準備をしていると、「ちょうど役所から連絡があってね」。原田さんはそう回想する。

 公衆便所を管理する大牟田市からの連絡だった。老朽化のため解体することになり、「新ビルに(公衆便所を)取り込んでほしい」とお願いされた。うそのような話だが、市の担当者に確認すると「そのようです」。89年に5階建てのビルが完成した。市の要望を受け入れ、ビルに公衆便所を併設した。昔からの愛称が変わる機会を逃した形になったわけだ。

 ただ、原田さんは「便所ラーメン」という呼ばれ方を気にしていない。「これで親しまれてきたし、悪意があるわけではないから。バラック時代には台風の風よけになって助けてもらったしね」と笑う。

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 炭鉱でにぎわった街は変わった。かつて店の道向こうには、炭鉱関係の機械を製造してきた三井三池製作所の工場があった。跡地は今大型商業施設となり、人の流れも変わった。店も世代交代しつつある。厨房には長男泰行さん(35)の姿。「あとは息子がよかごとしてくれる」と温かなまなざしを向ける。

 街と店を見守ってきた一杯。豚骨のみを強火で炊いただけあり、見た目から野性的だ。骨っぽさが残るスープはやっぱり濃厚で、ちょっと太めの麺との絡みもいい。かつて炭鉱労働者の胃袋を満たした味は、今は地域の味としてしっかり根付いている。

 食べ終えて店を見渡すと親子連れがいた。家族でラーメンをすすり、食べ終えた小学生らしき男の子は宿題を広げていた。この少年が親になれば子どもを連れてくるのだろうか? 地域に愛されるがゆえの光景に、そんなことを想像しながら店を出た。 (小川祥平)

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