平野啓一郎 「本心」 連載第218回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 僕は、少し考えてから返事を書きたかったが、それも不安で、すぐに感謝の気持ちを伝え、彼の誘い通りに面会を請うた。

 一旦(いったん)、一月半ばに約束したが、その後、ほどなく、治ったはずの風邪がぶり返したようだと延期してほしい旨の連絡があり、結局、二月以降に、改めて連絡することとなった。

 

 僕は、<母>にこの藤原亮治とのやりとりについて話してみた。どんな表情をするのか、反応に興味があったが、本当の母には、さすがにそんなに気楽には打ち明けられなかっただろう。

 <母>はただ、藤原亮治のファンに過ぎないことになっているので、

「あら、良かったねぇ。お母さん、あの人の本大好きで、ほとんど読んでるのよ。」

 と、屈託のない、朗らかな笑顔で言った。

 僕は、その表情から、咄嗟(とっさ)に、包み隠された<母>の本心を探ろうとした自分に呆(あき)れた。<母>には、何の感情もない。ただ、僕の言葉を統語論的に分析して、最適な返答をしているに過ぎない。そんな基本中の基本のことを、今更のように確認した。その反応は、本物の母ならば示したであろう態度とは、凡(およ)そ、似ても似つかないものと思われた。そして、僕はそのことに、不思議と苛立(いらだ)たなくなっていた。

 <母>に、完全な母の身代わりを求める気持ちが、いつの間にかなくなっていた。それはやはり、三好やイフィーとの関係が、母なしでも生きていける、という希望を抱かせるようになったからなのかもしれない。つまり、母がもういなくなってしまったせいで、まったく違う場所になってしまったこの世界に、存在し続ける、ということだが。

 母は、僕が存在しない世界を知っていたし、事実、四十年以上も生きていた。けれども僕にとって、この世界とはつまり、母がいる世界だった。

 母の死後は、とても落ち着いて、こんなことは考えられなかった。僕は無力で、ただ、母と母がいた世界の思い出の中でだけ、生きていくことが出来れば十分だと、心から信じていた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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