博多商人の本能寺の変

西日本新聞 オピニオン面 上別府 保慶

 新型コロナウイルスの影響で、NHKが大河ドラマ「麒麟(きりん)がくる」の収録を止めている。私はクライマックスとなるはずの「本能寺の変」の回がどうなるのかに気をもんでいる。

 というのも事件当日の本能寺には、織田信長に呼ばれた博多の豪商2人、島井宗室(しまいそうしつ)と神屋宗湛(かみやそうたん)が泊まっていたからだ。この時、宗室は43歳ほど、宗湛は31歳だった。信長が2人に秘蔵の茶道具を見せるはずだった日の夜明け、歴史を変える運命の時が訪れた。

 部屋で熟睡した2人は銃声に目を覚ました。宗湛は床の間の掛け軸を外してくるくる巻き、腰に差した。宗室は空海の直筆と伝わる「千字文」を手にした。2人は信長の家来で弥助と呼ばれるアフリカ人に案内され、本能寺を脱出しキリスト教の南蛮寺へと逃れた。

 若い宗湛が持ち出した掛け軸は、牧谿(もっけい)という13世紀の中国の禅僧が描いた水墨画「遠浦帰帆図(えんぽきはんず)」だった。洞庭湖に注ぎ込む川の風景画で、元々は室町将軍の足利義満が所蔵し、この時は信長が持っていた。

 中国では牧谿の死後にその絵は忘れられたが、日本人には好まれ、もてはやされた。信長は牧谿の絵を贈られると不機嫌な時もニタニタ笑いだしたとされ、無数の偽物が出回った。

 テレビの人気番組「開運!なんでも鑑定団」で牧谿を持参する人がいると、司会の今田耕司さんが「また牧谿ですよぉ、大丈夫ですかねぇ」と爆笑を誘うのにはそんな訳がある。

 宗湛が持ち出して焼失を免れた「遠浦帰帆図」はもちろん本物だった。作家の井伏鱒二さんは「神屋宗湛の残した日記」(講談社)で、宗湛が本能寺の変で見せた動きを「絵を見る眼力も然(しか)りながら、急場の機転は只(ただ)ならぬものがある」とただ絶賛している。

 豊臣秀吉が朝鮮出兵のために築いた肥前の名護屋城へ向かう途中、博多の宗湛の家に立ち寄り「遠浦帰帆図」を見た。秀吉はこの絵に合う茶室を造れと命じ、こんなことは千利休も教えまいと言った。多分、わしの審美眼のすごさよ、と自慢したかったのだろう。

 その後、この絵は秀吉の所有となり、秀吉の死後には徳川家康に形見分けされた。今は京都国立博物館(京都市)が所蔵する。宗室が守った空海の書は東長寺(福岡市)にある。

 55年前の大河ドラマ「太閤記」は本能寺の変を描いた際、博多の2人のうち、宗湛のみを描き、土屋嘉男さんがこれを演じた。混乱のさなか、宗湛は貴重な牧谿の絵をいただいてまいりますと信長に直接頼み、周囲を怒らせる。だが高橋幸治さん演じる信長は「よし」と許し、「わしは死んだ後は信じん」としばらく絵を眺め、修羅場へと向かった。 (特別編集委員・上別府保慶)

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