平野啓一郎 「本心」 連載第228回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 仮想空間の中では、視界の外の人の気配を、なかなか察知できない。二メートルほどの距離になって、ようやくその黒いレザーのベルトに縛(いまし)められた肉体を認め、脇に避(よ)けた。

 擦れ違おうとする僕を、彼はじっと見ていた。

 イフィーのアバターが、また興味をそそったのだろうかと、僕は気にせず通り過ぎようとした。しかし、その刹那、僕は間近に見た彼の目に、心を奪われた。そして、ハッとした。僕は、歩みを止めかけるような曖昧な足取りで、そのアバターの顔を見ながら、傍らを抜けた。向こうも、僕と真正面に向かい合った後、すぐ側(そば)で擦れ違うのをゆっくり見ていた。そして、微(かす)かに口許(くちもと)に笑みを過(よぎ)らせると、そのまま、何も言わずに会場の奥へと進んでいった。僕はその後ろ姿を、取り分け、力士のように隆起した剥(む)き出しの尻と太ももの筋肉を呆然(ぼうぜん)と眺めていた。

 堂々と、裸足(はだし)で石の床を踏み締め、露(あら)わになった性器を誇示する彼は、常連なのか、たちまち、二人の女性に抱きつかれた。

 その肩口から覗(のぞ)く横顔を見ながら、僕は、今のはイフィーだったのではあるまいかと、その場に立ち尽くしていた。……

 

 僕は、イフィーに性的能力があるのかどうかを知らない。彼はただ、「下半身が不自由」とだけ言い、僕は勿論(もちろん)、それ以上、詳しくは訊(き)かなかった。

 実際のところ、あのアバターは、中にイフィーが入っていたのではなく、イフィーがデザインしたものを、どこかの誰かが購入し、使用しているだけなのかもしれない。だからこそ、僕はその目に心惹(こころひ)かれたのではなかったか。イフィーのコレクションをざっと見た限り、それらしいものは見つからなかったし、凡(およ)そ彼の趣味とは思えなかったが。

 しかし、目だけでなく、僕はあのアバターと間近で向かい合った時、唐突に、まるでイフィーの自宅のリヴィングで、彼と二人きりで話をしている時のような雰囲気を感じたのだった。凡そ似ても似つかない外観であるにも拘(かかわ)らず。そして、あの巨体の筋骨隆々たる背中は、なぜか、リヴィングの奥にあるキッチンに向かって移動する、彼の車椅子の後ろ姿と重なって見えたのだった。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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