首里城地下の壕を平和拠点に 火災から半年、識者「公開を」

西日本新聞 社会面 高田 佳典

「沖縄戦理解に欠かせない」

 昨年10月に焼失した首里城(那覇市)の地下にある旧日本陸軍第32軍司令部壕(ごう)の公開を求める声が高まっている。75年前の沖縄戦の軍事拠点は、かつて公開の方針が打ち出されたが、崩落の危険性があり実現していない。首里城火災から半年。壕の調査に携わった専門家は「沖縄戦の悲劇は司令部壕の存在なしには語れない。首里城に関心が集まる今こそ、平和の拠点として公開すべきだ」と語る。

 壕は沖縄守備隊、第32軍の軍事的中枢として1944年12月に構築が始まった。首里城を南北に横断するように掘られ、総延長1キロを超える壕には牛島満司令官や長勇参謀長ら幹部をはじめ、学徒隊もいた。

 与座章健さん(91)=沖縄県南風原町=は県立第一中を繰り上げ卒業し学徒隊に入った。壕では毎晩、崩落した土を運び出す作業を続けた。「兵隊に尻を蹴られながら必死に働いた」。ただ、米軍の激しい攻撃にさらされ、首里城や母校は焼け落ちた。与座さんは「勝ち目のない戦い。愚かな戦争だった」と振り返る。

 「司令部壕は近現代史における『関ケ原』。沖縄戦の実相を理解するためには欠かせない」。名桜大名誉学長の瀬名波栄喜さん(91)=那覇市=は力説する。96年に壕の公開を決めた県の検討委員会で委員長を務め、壕内の調査も行った。

 米軍は本土進攻の出撃拠点とするために沖縄を攻めた。陸上で迎撃する方針をとった旧日本軍は、司令部壕を守るため幾重にも防衛ラインを敷いた。だが、米軍の圧倒的な戦力を前に45年5月下旬、壕を捨てて多くの住民が避難する本島南部に撤退。さらに戦闘を続け、沖縄戦全体で一般県民約9万4千人を含む日本人約18万8千人が犠牲になった。

 瀬名波さんは「司令部壕で戦闘が終わっていれば犠牲者は拡大しなかった」とした上で、「米軍は沖縄戦の苦戦から原爆投下に傾いたとされる。壕を巡る戦いが天下の分かれ目になった」と指摘する。

 玉城デニー知事は首里城復興の基本方針を発表した4月24日の記者会見で、壕について「苛烈を極めた沖縄戦の司令部が置かれていたという歴史的事実をしっかりと後生に継承する」と強調。VR(仮想現実)などの技術で壕内を再現し、平和学習に活用すると表明した。一方で、崩落の危険性と整備費用が多額であることを理由に「公開は不可能」との立場を変えない。

 瀬名波さんは首里城火災を機に「保存・公開を求める会」を立ち上げた。旧日本陸軍の大本営地下壕を国が修復したことを引き合いに「第32軍司令部壕も本来は国の責任で整備すべきで、公開は平和を考えるきっかけになるはず」と訴えた。

(那覇駐在・高田佳典)

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