平野啓一郎 「本心」 連載第232回 第九章 本心

西日本新聞 文化面

 外の空気を吸いながら、イフィーと連れ立って歩くのは、仮想現実のどんな風変わりな世界で会うよりも、非現実的な感じがした。歩行者天国には人出があり、みんなマスクをしていた。イフィーは、黒いマスクをしていたが、その端から覗(のぞ)く、赤みを帯びた頬は、普段以上に幼さを感じさせた。

 電動の車椅子なので、押す必要はなかったが、狭い場所では横に並ぶことが出来ず、目の高さも違うので、歩いている間は、あまり会話をしなかった。擦れ違うこの車椅子の青年が、<あの時、もし跳べたなら>の“中の人”だと察知する者は一人もいなかっただろう。

「外出は、本当に必要のある時に、必要のある場所に行くだけだから、こんなふうに雑踏をうろつくことが、普段は全然ないんです。……もっと必要なんでしょうけど、僕には。」

 信号待ちで、僕を見上げて、ぽつりと呟(つぶや)いたイフィーの言葉は、マスクの中で行き場をなくしたようにそのまま絶えてしまった。

 

 三好の贔屓(ひいき)のコンビは、“電球”という風変わりな名前で、まだ知る人ぞ知るといった程度の若手だったが、今、「勢いがある」のだという。僕は、事前にネットで少し予習していたが、その漫才は自問自答風で、幾分即興的でもあり、ほとんど困惑に近い失笑を誘いながら、それが次第に膨らんでいくといったスタイルだった。「方向性ネタ」というのが、彼らの得意の漫才だった。

 会場は満席で、僕たちの席は、車椅子用のスペースが設けられた出入口近くだった。五組の出場者中、“電球”は四組目で、僕たちは、彼らだけを見る予定だった。会場の換気は悪く、イフィーはそれを気にしていた。

 舞台は眩(まぶ)しく、客席は薄暗かった。

 スーツ姿のボケ役とパーカーを着たツッコミ役は、「どーもー。」と登場して、客席に向かって挨拶(あいさつ)し、「いやいや、寒いですね。」などと語りかけながら、「最近、実は、犬を飼い始めましてね。……」と漫才を始めた。

 しかし、「ほお、」と聴いていたツッコミ役の相鎚(あいづち)が、しばらくすると曖昧になり、首を傾(かし)げるようになった。ファンはよく知っているので、この辺りから、もうクスクス笑っていた。

平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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