同じ道を歩き始めた4人 ビートルズになりたくて(4)

西日本新聞 筑豊版

ザ・フライングエレファンツ安部米央が語る「筑豊のビートルズ」

 結成の翌年、川崎町で開かれた音楽祭「第1回川崎ミュージック村」に呼んでもらいました。それを主催していたのが、ドラマーの手島武文でした。やりとりをしているうちに気が合い、音を合わせてみると、手島の刻むビートがしっくりきて、バンドに勧誘しました。こうしてバンドメンバーがそろったのです。

 しかし、1年後には武貞の仕事が忙しくなり、木村も就職で兵庫県に引っ越したので、全員で集まる機会は減りました。ほぼ解散状態となったエレファンツの灯、音楽に対するモチベーションを絶やさないよう、私は手島と2人で活動を続けました。

 その頃、私と手島は「ジ・エンドレス」という別のバンドを組み、林徳夫がベースで加わってくれました。このときはビートルズに限らず、ベンチャーズやポール・アンカ、そしてアイドルの歌も演奏しました。長い足踏みの時代でした。

 転機は1986年。福岡市にできたビートルズ専門のライブハウス「キャバーンクラブ」が「ビートルズを求む」という小さな新聞広告を出していたんです。1人でオーディションに行くと「次はバンドで来て」と言われ、エレファンツの4人で行くと合格しました。4人それぞれに本業があったので、週末だけの出演になりました。

 ただ、武貞は「仕事を考えると出演は難しい」と打ち明けました。彼は結成直後から、仕事と音楽の両立に悩んでいたので「俺たち、ビートルズになりたかったんだろ? 頑張ろうぜ」って意味を込めて、手書きのポストカードを送りました。「ビートルズになりたかった僕達(ぼくたち)」という題をつけて、ギターを弾く私たち2人の絵を描いてね。高校時代から一緒にやってきた、味のある男だったのでもったいなかったですけど、仕方がないです。

 武貞の脱退後、声を掛けたのが林でした。彼は小さなことにこだわらないさっぱりした性格で「良いよ」と、ベースをギターに持ち替えてくれました。こうして「筑豊のビートルズ」と言われる今の4人(安部、木村、手島、林)が同じ道を歩み始めました。

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