平野啓一郎 「本心」 連載第234回 第九章 本心

 イフィーも笑い、三好に小声で、何かを語りかけていた。それにまた、三好が笑って応じ、僕に小声で何かを伝えたが、僕はただ、その吐息の熱だけを感じて、内容は聞き取れなかった。そんなに彼女の顔に近づいたのは、初めてのことだった。

 舞台の二人は、その後も、新しい登場の仕方を幾通りも試み、観客に挙手でどれがいいかを尋ね、

「いやいや、これはないやろ? 何かの罠(わな)か?」

 などと目を丸くしたりしながら、面白おかしいやりとりを続けた。会場は笑いに包まれ、僕も段々、おかしくなってきた。三好もイフィーも、挙手や拍手に参加することを楽しんでいた。

 最後まで結局その調子で、締めも、

「もう止(や)めさしてもらうわ。」

 という決まり文句に対して、

「それも平凡やなあ。……」

 と腕組みして首を傾(かし)げ、

「もうええねん!」

 と返されても、

「それもまた、……」

 と呟(つぶや)きかけたところで、

「ええ加減にせえや!」

 と、舞台に留(とど)まって考え込む相方を、無理矢理(むりやり)、引っ張って退場させて終わった。

 観客は、拍手とともに、しばらくざわついたまま笑っていた。

 僕たちは、結局、トリのもう一組まで見たが、あまり印象に残らなかった。

 イフィーの移動を考えて、少し早めに会場をあとにした。もう日が落ちて、街にネオンが灯(とも)り始めていた。僕たちは、登場の仕方はどれが一番良かったかを、レストランに向かいながら語り合った。見終わった後に、こんな風に話が盛り上がるコンビというのは、きっと売れるだろうとイフィーが予言的なことを言った。

 僕とイフィー、それに三好の、三人揃(そろ)っての外出は、後にも先にも、この一度きりだった。その中でも、“電球”の漫才がくっきりと記憶に残っているのは、舞台の照明のせいであり、また、「方向性」という言葉が、僕たちの関係の有り様(よう)にとって、いかにも暗示的だったからだろう。

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平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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