明治の福岡県令に学べ 後藤恵之輔氏

西日本新聞 オピニオン面

◆コロナ対策首長の指導力

 新型コロナウイルス感染症大流行の今、都道府県知事ら首長の強いリーダーシップが求められている。明治期にコレラが大流行した際、国に先駆けてコレラ禍と闘った県令(現在の県知事)がいた。第4代福岡県令の渡辺清である。

 渡辺は大村藩出身で、戊辰戦争を官軍重職として歴戦し、「江戸城無血開城会談」に同席。維新後は奥羽復興に尽力した後、1874(明治7)年9月、福岡県令に就任した。

 コレラは明治期、最も恐れられた感染症であった。77年9月、中国から横浜、長崎にもたらされて全国的に広まり、以後、大流行を繰り返した。大流行各年の感染者数と致死率は次の通りである。

 77年=1万3816人(58%) 79年=16万2637人(65%) 82年=5万1631人(65%) 85年=1万3824人(67%) 86年=15万5923人(70%) 90年=4万6019人(77%) 95年=5万5144人(73%)

 79年には福岡県でも夏から大流行が始まった。8月までに感染者は2937人を数えた。

 政府はこの夏、太政官布告「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を発布する。これにより各府県は予防撲滅に努めたが、福岡県はいち早く最初の流行年の77年に、10月3日付布令をもって、渡辺県令より次のように全県民へ通達していた。

 概略を示す。

 ▽家屋道路を清潔にし、特に食物の注意として魚市場や料理店などで汚穢物の隔離埋棄に努めること。

 ▽当分の間、登礼や説教、相撲、芝居など多人数の群集を一切禁止する。

 ▽石炭酸(クレゾール)をはじめとする薬品を、代価騰貴販売する者がいれば処分する。

 さらに伝染病院についてである。法制上、感染症患者を隔離するに至った措置は、80年7月太政官布告第34号「伝染病予防規則」および、同年9月内務省乙第36号「伝染病予防心得」による。

 しかし、福岡県における伝染病院の設置は、渡辺県令が全県民通達を行って間もない77年10月30日付で内務卿(大久保利通)と大蔵卿(大隈重信)宛てに提出した「避病院諸費御下金之儀ニ付伺」書に、端を発する(当時、伝染病院は避病院と称した)。

 これら国に率先する衛生行政を、渡辺県令はなぜ立案実行し得たのか。そこには同郷の畏友、長与専斎の存在があった。

 専斎は大坂適塾、長崎医学伝習所に学び、明治維新後に上京して岩倉具視遣米欧使節団に同行、米欧の医学教育・医制制度を視察した後、コレラが大流行する2年前、内務省の初代衛生局長に就任していた。「衛生」をわが国で最初に提唱し「日本衛生の祖」と称される。渡辺の孫の健康診断は専斎が行ったほど、二人の絆は強かった。

 要は、コレラ大流行という眼前の危機に接し、直ちに人脈を駆使して医学、衛生学の専門知識を吸収し、中央政府の指示を待つことなく行動した決断力の証しと言えよう。

 ひるがえって今回の新型コロナウイルス禍を巡っても、都道府県知事それぞれの対策手腕に対し、さまざまな評価の声が上がっている。官選、民選の違いは承知の上で、首長らは渡辺県令の事績など歴史に学び、当面の感染抑止策はもちろん、中長期的には「人口分散」によるリスク低減を図るなど、連携しながらも果断な対処が求められよう。

      ◇        ◇

後藤 恵之輔(ごとう・けいのすけ)長崎大名誉教授  1942年、福岡県志免町生まれ。長崎県大村市市史編さん委員などを歴任。著書に「暮らしと地球環境学」「新長崎ことはじめ」など。福岡市南区在住。

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