平野啓一郎 「本心」 連載第244回 第九章 本心

 「……そう。」

 僕は、辛うじてそう呟(つぶや)いたが、声は音になりきれなかった。

「それを伝えるって言うのは、……どういうことなんだろうね。」

「胸に仕舞(しま)って、言わないまま死ぬのは心残りだって。どうしても、言葉にしたかったっておっしゃってたわね。……お母さん、その気持ちはわかるのよ。」

「……わかる?」

 ふと、吉川先生は、<母>がVF(ヴァーチャル・フィギュア)であることを、理解しているのだろうかという疑念が過(よぎ)った。認知症といった話は、当初から聞いていなかったが、最後はどうだったのだろうか?

 わかった上のことならば、恋心も、それをどうしても伝えたいという衝動も、まったく愚かだった。しかし、だから何なのだろう? <母>は「わかる」と言った。そして、僕にも「わかる」気がした。

 これから死のうとしている。そういう時には、ただしたいようにする以外に、一体、何があるだろう?

 <母>は更(さら)に、こう付け加えた。

「先生ね、『やっと、あの世で本当のあなたに会えますね。』っておっしゃったの。まるで、お母さんのこと、幽霊か何かみたいに。どういう意味かしら?」

 <母>は、自分が死んでいるということを知らない。僕は、死の四年前に設定されたままの<母>の顔をしばらく見ていたあとで、

「どういう意味だろうね。」

 と首を傾(かし)げた。

 翌日、カンランシャの野崎から、彼が<母>に、法的に効力のある遺言とともに、二百万円を遺(のこ)している、という連絡を貰(もら)った。実際に受け取るのは僕である。彼は、僕に対して、

「お母様には、お世話になりました。ご厚意に感謝します。」

 という言葉を遺していた。

 彼が僕に語り掛けたのは、後にも先にも、この一度きりだった。

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平野氏のメッセージ

私たちの生を、さながら肯定する思想を考え続けています。主人公は、愛する母親を亡くしたあと、仮想現実によって再現された母親と生活することになります。その過程で見えてくる母の本心と、自分の心の変化が主題です。乞うご期待!

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)プロフィール

 1975年、愛知県蒲郡市生まれ、北九州市育ち。東京都在住。京都大在学中の99年、デビュー作「日蝕」で芥川賞。「ある男」(読売文学賞)など。「マチネの終わりに」(渡辺淳一文学賞)は福山雅治さん、石田ゆり子さん共演で映画化された。

マチネの終わりにの公式サイト

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