消えゆく復帰運動の象徴 「沖縄は本土」現実遠く

運動拠点と式典会場、無念の解体

 沖縄県は15日、米施政権下から本土に復帰して48年を迎えた。その沖縄で、憲法の適用と基地のない島を求めた復帰運動の拠点や象徴だった建物が相次いで解体される。運動に携わった人は消えゆく歴史の舞台を惜しみ、今なお、国内の米軍専用施設の7割が集中する現状に「本当に復帰したと言えるのか」と憤る

 沖縄銀行本店やオフィスビル、飲食店が立ち並ぶ那覇市の中心部。外壁がアルミ製格子で覆われ、ひときわ目を引くのが県教育会館だ。復帰運動を主導した沖縄教職員会=現沖縄県教職員組合(沖教組)=の会長で、復帰後に初代県知事も務めた故屋良朝苗氏が1954年に反戦平和教育の拠点として建てた。沖縄戦で犠牲になった教育関係者7610人の慰霊碑もある。

 「格子は投石に備えるため。まさに闘争のための要塞(ようさい)だった」。秘書を務めるなど屋良氏と行動を共にした元沖教組委員長、石川元平さん(82)=同県宜野湾市=はこう振り返る。

 52年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効により日本は主権を回復。一方で、切り離された沖縄にとっては「屈辱の日」となった。「銃剣とブルドーザー」により土地が強制接収され、司法、立法、行政の全権力は米軍人出身の高等弁務官が掌握。困窮にあえぐ県民が求めたのが本土復帰だった。

 運動の中核を担った教職員会は米側から「革命政府」と呼ばれ、米軍の監視対象になったという。会館の階段が急なのは上から物を落として侵入者を防ぐため。扉も分厚い。現在は沖教組が使用するが、老朽化や土地の賃料高騰で来年5月に解体する。石川さんは「米軍の絶対権力と闘った歴史が詰まっている。解体は残念だ」とこぼす。

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 復帰から50年が迫る中、米統治時代の公的な建物はほとんど残っていない。

 琉球列島米国民政府と琉球政府が入居した行政ビルや、裁判所だった司法院は復帰後、県庁舎となり1986年に解体。県議会として活用した立法院も99年に取り壊された。

 本土復帰した72年5月15日に記念式典があった那覇市民会館は現存するものの、耐震強度不足で2016年に閉鎖、今後解体される。元琉球政府職員として復帰事業に携わり、県広報係長として式典に参加した平良亀之助さん(83)=那覇市=は「復帰すれば平和で基地のない沖縄になると信じていた」と話す。

 沖縄は米軍基地の「即時・無条件・全面返還」を求めたが、実際は「核抜き・本土並み」として残った。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設を巡っては、県民が反対の民意を示しても埋め立て工事は進む。平良さんは「沖縄の声が無視されているのは、復帰の時も今も変わらない」と声を荒らげる。

 式典当日、市民会館隣の与儀公園では、土砂降りの雨の中、約1万人が怒りの声を上げた。平良さんはこう力を込めた。「時代は流れ、歴史の舞台は消える。でも沖縄の苦難の歴史は忘れてはならない」

(那覇駐在・高田佳典)

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